モスクワロシア(その他表記)Moskovskaya Rus’

改訂新版 世界大百科事典 「モスクワロシア」の意味・わかりやすい解説

モスクワ・ロシア
Moskovskaya Rus’

政治・経済・文化の中心がモスクワにあったモスクワ時代(ほぼ15世紀半ばから17世紀末まで)のロシアをいう。モスクワ国家Moskovskoe gosudarstvoともいう。国号はモスクワ大公国ウラジーミル大公国内でのモスクワ公国の発展をうけて,モスクワ大公イワン3世は〈北東ロシア〉(ウラジーミル大公国とノブゴロド)の政治的統一に向かい,〈タタールのくびき〉にも終止符を打った。また,イワン3世は〈ルスカヤ・プラウダ〉後,最初の全国的な〈裁判法規集(スジェブニク)〉を1497年に編纂した。こののちワシーリー3世を経て,イワン4世が1540年代末から一連の改革と征服事業を進めたが,治世後半のリボニア戦争オプリチニナで混乱と荒廃をもたらした。その子フョードル1世の死(1598)でリューリク朝が絶え,ボリス・ゴドゥノフの末年スムータ(動乱)がおこった。1613年ロマノフ朝が成立し,ミハイル・ロマノフの時代に国家再建が進んだ。アレクセイ・ミハイロビチ帝の時代には,1649年の〈会議法典(ウロジェニエUlozhenie)〉によって農奴制が確立し,君主権が絶対化される一方,都市民やコサックの反乱,ラスコーリニキ(分離派)の発生をみた。続くフョードル3世の代にかけて行政の制度化・官僚化と西方文化の浸透が進み,ソフィア・アレクセーエブナの摂政期を経て,ピョートル1世のもとでロシア帝国に移行した。

ロシア的専制(ツァーリズム)はモスクワ時代に生まれた。イワン3世は〈専制君主〉を称し,ときにツァーリの称号も使った。彼とその子ワシーリー3世の時代,かつての独立公国の諸公と大公家の一族とその領地は,大公のきびしい統制をうけ,ノブゴロドとプスコフではベーチェが廃され,両市の指導層はロシアの他の地方に移住させられた。またこの時期,大公の統治権や系譜をビザンティン帝国や古代ローマの皇帝に由来させる伝説が生まれ,内外に大公の権威を示すため〈モノマフの帽子〉や紋章としての〈双頭の鷲〉が使われ始め,〈モスクワ・第三ローマ〉論なども説かれた。しかし諸公の多くは先祖伝来の領地でなお半ば独立の存在であり,彼らとモスクワ譜代の貴族(ボヤーレ)が貴族会議を構成して大公権を制約し,文武の高官,代官の職も独占した。郡と郷(ボロスチ)の代官は住民から,租税と裁判手数料のほかみずからの扶持(コルム)をも徴収し,住民団体としばしば紛争をおこしていた。そこでイワン3世は上記の〈裁判法規集〉などで住民の裁判参加,代官の任期制などの規制策をとり始めた。イワン3世は併合したノブゴロド領で下級戦士に軍役を条件とする土地(ポメスチエ)を与えて,君主に忠実な士族(ドボリャーネ)の育成に努め,これがしだいに貴族に対抗する大公権力の支えになっていくが,イワン3世の代に現れる大公の書記役がすでに士族であり,16世紀前半に始まる都市司令,警察区長は在地の士族の間から選ばれている。

 1547年にツァーリの称号を公式に採用したイワン4世(雷帝)に,政治思想家ペレスベトフが強力な君主による正義の実現を求めたが,幼少期に有力者の専横を身近に体験したイワン自身が,最も雄弁な君主専制イデオローグであった。彼の治世前半には司祭シリベストルと士族出身のアダシェフらの協力で,全国会議(ゼムスキー・ソボルZemskii sobor)とストグラフ会議が開かれ,新たな〈裁判法規集〉の制定(1551),教会制度の整備,税目と裁判手数料の確定,代官の廃止と郷および都市の住民団体の自治と責任の強化,所領面積に応じた軍役負担とこれに伴う世襲所領(ボチナ)所有者(多くは貴族)の勤務の自由の否定,などの改革が行われた。また1550年全国から選ばれた1000人余の士族がモスクワ近くにポメスチエを与えられ,彼らはこのころ形をととのえ始める使節庁,財務庁などの官庁(プリカース)の幹部にもなり,士族層のエリート(〈モスクワの士族〉)を形成していく。しかしこうした改革と士族の台頭にもかかわらず,諸公を含む貴族の力はなお強く,官僚制も不備で,イワン自身が貴族会議を必要とした。彼は〈失寵(オパーラ)〉で個々の貴族を没落させ,またオプリチニナ政策で多数の名門貴族を消滅させたが,彼らの存在と役割そのものを否定することはできなかった。

 ボリス・ゴドゥノフやミハイル・ロマノフは全国会議でツァーリに選出され,後者は即位の際,一種の支配契約にも宣誓したといわれるが,西ヨーロッパにおける選挙王制や支配契約はロシアでは定着しなかった。イワン4世の幼少期やスムータ期の経験と隣国ポーランドの実例から大貴族の寡頭政治はロシアでは嫌われ,これはこの国の政治思想の大きな流れとなった。ミハイルを選出した全国会議は,10年間解散せずにスムータ後の秩序回復に協力し,その後も全国会議は戦争や重要な課税問題,治安問題に関して数回開かれた。これはときに地方士族や商人の強い政府批判の場となり,1649年に全国会議の承認した〈会議法典〉には,君主権強化の条項などと並んで,農民問題や都市問題に関して士族と商人の要求が大幅に取り入れられた。しかしこの法典やほかの法令,政策で彼らの基本的要求が満たされる一方,社会の身分的編成が進み,相次ぐ官庁の新設・分割・統合と官僚制の強化,全国的に配置された地方行政官(ボエボダ)への地方自治機関の従属化のなかで,全国会議はその役割を失っていった。貴族会議もロマノフ一門やツァーリの恩顧に頼る者で占められてしだいにその実質をなくし,アレクセイは枢密庁を設けて政治を独裁し,モスクワ総主教ニコンの失脚で教会に対する支配権も強め,モスクワ国家はその末期に絶対主義への傾斜を強めた。

モスクワ・ロシアでは農業技術はなお低く,寒冷な北部はもとより中央部でも,農民の生活は農耕のほか林間での養蜂,狩猟,採集と漁労に大きく依存し,自然災害,疫病,強盗,戦乱の被害も少なくなかった。農家はふつう広い森林に1ないし2~3戸単位で散在し,多数戸の部落の発生は16世紀末からとされるが,これら部落の中心は教会のある村で,この村をいくつか含む郷がミール(共同体)を構成した。官憲や領主も直接ミールの生活に関与することは少なく,長老(スターロスタ)などの役職が外部世界との接点をなし,国税や領主への貢租もミールの集会で各戸に割り当てられた。農民は現物や貨幣の貢租のほか,農耕賦役を求められることもあったが,領主直営地の労働にはホロープ(奴隷)などの隷属民も使われた。1553年白海に漂着して西ヨーロッパとロシアの北方交易路を開いたイギリス人船長チャンセラーによると,都市にある領主の屋敷や市場への生産物の輸送にも農民は使われ,大消費地モスクワには毎朝700~800台のそりで穀物や魚が運びこまれた。

西ヨーロッパとの貿易はおもに北ドビナ河口に開かれたアルハンゲリスク,東方諸国とのそれはボルガ河口のアストラハンを基地に行われ,西ヨーロッパには毛皮や船材に続いて,17世紀半ばまでには穀物も恒常的に輸出されるようになった。穀物は国内でも南から北へ大量に送られ,産地の限られた岩塩などとともに重要な商品になったが,ツァーリはこれら重要物資と輸出品を専売品とし,その取扱いの実務はゴスチとよばれる特権的大商人にまかせた。ロシアとの貿易に優先権を認められたイギリスとオランダの商人は,はじめロシア国内でも取引を許されたが,ロシア商人の強い反対で17世紀後半にはこれが禁止された。内外商業が発達するとともに手工業も発達し,都市のポサード(商工業地帯)が成長したが,西欧的な都市の〈自由〉と農村手工業に対する規制のないことが,モスクワ・ロシアの特徴であった。この時代,聖俗大領主のなかには都市内外に営業税のかからない商工業集落をもったり,ポサード住民の托身(国家の税から免れるため聖俗大領主の支配下に入ること)をうけたりするものがあり,これはストグラフ会議でも問題になったが,上記〈会議法典〉で商工業集落の都市への編入とポサードからの托身者の排除が決定された。

大領主,とくに修道院は裁判と免税の大幅な特権をもち,所領の拡大と経営に熱心で,中世末から,国有地ともいうべき〈大公の〉土地で自由農民のミールとしばしば土地争いをおこした。15~16世紀にはおもに世俗領主からの世襲所領の遺贈と購入で土地を集積し,16世紀末にはところにより耕地の半ばが修道院領内にあった。修道院領の拡大はイワン3世以来大きな政治問題になり,教会内でもニル・ソルスキー派とヨシフ・ボロツキー派の論争で聖界の土地所有の是非が論じられた。しかし教会の権威は高く,君主もその支持を必要としたので,イワン4世なども教会会議(1551-80)から自粛決議や一部所領と特権の自発的放棄以上のものは引き出せなかった。スムータ後も総主教フィラレートの時代には教会の力が強かったが,〈会議法典〉は聖界の新たな土地取得を禁じ,聖職者の法的特権を制限し,政府による修道院領管理への道が開かれた。イワン3世以来の政府の修道院領に対する関心の背後には,ポメスチエとして士族に与えるべき土地の必要ということもあった。ポメスチエは政府の士族支持策で,16世紀後半には世襲所領を上回った。しかしオプリチニナや永年のリボニア戦争の重圧・被害でイワン4世の末年には全国的に多くの廃村が生まれ,このため領主たちが激しい農民引抜き戦を展開した。農民の多くは修道院はじめ富裕な大領主のもとに身を寄せたので,小規模なポメスチエ保有者の多い士族は大きな打撃をうけた。政府は1497年と1551年の〈裁判法規集〉で農民の移動を秋の〈ユーリーの日〉の前後2週間に制限していたが,これをさらに強め,とくに農民の逃亡に新たな対策をとる必要に迫られた。そして中小領主層の強い要求で16世紀末以降次々に強化されていったこの対策が,土地台帳の整備,人口調査などの他の政策やその他の事情とあいまって,〈会議法典〉によるロシア農奴制の法的完成に行きついた。またこの間に,元来は一代限りの保有地であったポメスチエの世襲化,世襲所領化がしだいに進み,領主権は安定したが,農民逃亡は17世紀後半にも続き,社会の不安定要因をなした。

逃亡農民やホロープの一部は盗賊団やコサック集団に加わり,ボロトニコフの乱ラージンの乱も農民をまきこんで農民戦争の性格をもったが,モスクワ・ロシアでは都市の民衆反乱も少なくなかった。イワン4世の改革は1547年のモスクワの暴動がきっかけになった。スムータ期にモスクワの民衆は偽ドミトリー1世を殺害し,ポーランド占領軍に反乱をおこした。また〈会議法典〉を成立させた全国会議は,アレクセイの寵臣モロゾフの塩税引上げなどに対する〈塩一揆〉(1648)のため招集された。この後も1652年にプスコフの民衆反乱,62年に銅貨の乱発に原因したモスクワの〈銅一揆〉があり,ともに軍隊の出動をみたが,前者は政府に新たな全国会議の招集,後者は銅貨回収を余儀なくさせた。17世紀には,ニジニ・ノブゴロド(現,ゴーリキー)の商人ミーニン・スホルークらのスムータ末期における活動以来,政府に協力して反乱の鎮静に努めた都市ブルジョアの発言と活躍がとくにめだち,これが開明派官僚オルディーン・ナシチョキンらの活動の背景にもなった。17世紀のヨーロッパは大きな転換期にあって,〈総体的危機〉を経験したとされるが,ロシアもこの点で例外ではなく,世紀後半の絶対主義への傾斜と続くロシア帝国の成立は,この危機へのロシア的対応であったともいえる。

ピョートル1世の北方戦争と西欧化政策をまつまでもなく,ロシアはすでにモスクワ時代にヨーロッパ国際社会の一員になりつつあった。三十年戦争にロシアは直接参戦はしなかったが,プロテスタントを支持してスウェーデンに穀物を送った。またリュッツェンの戦でのスウェーデン王グスタブ・アドルフの勝利はモスクワで祝砲とパレードをもって祝われた。さらにスペインの無敵艦隊を破ったイギリス艦隊の船材はロシア産で,西方の価格革命はロシアにも波及した。しかしモスクワ・ロシアの対外関係でより注目すべきは,その急速な領土的発展であり,これは同時代のスペインの海外発展などとともに,ヨーロッパの膨張の一環をなしていた。モスクワ国家ははじめ,ボルガ川上流域を中心とする当時のロシア人居住地を版図とし,いわば民族国家として成立したが,その後の発展でロシア人居住地の急速な拡大とみずからの多民族国家への転化をもたらした。しかしこれは中央政府の威令のおよびにくい周辺地域の異民族,異教徒,異文化とコサック集団などへの対応という困難な問題を生んだ。これは他の多くの問題とともにモスクワ・ロシアでは一部しか解決されず,ロシア帝国に受け継がれた。

モスクワ・ロシアの成立と発展を可能にしたのは,永い間モスクワを脅かしていたキプチャク・ハーン国とリトアニア大公国の衰退であった。この時期には一部のタタール系貴族とリトアニア諸公がモスクワ大公に仕え,イワン4世の母もリトアニアから移ってきたグリンスキー公の娘であった。キプチャク・ハーン国からは15世紀にカザン,アストラハン,クリミアの諸ハーン国が分立し,モスクワはこれに和戦両様の対応を続けたが,イワン4世が1552年大軍を送って激戦の末カザン・ハーン国を占領した。ロシア平原のイスラム勢力に対するこの画期的な勝利は,〈赤い広場〉のワシーリー大聖堂の建設で記念されたほか,歌にもうたわれて永く記憶された。またカザンを基地にまもなくアストラハンまでのボルガ全流域がイワン4世により制圧され,ウラル地方の開発とシベリア征服も大商人ストロガノフ家とコサックのエルマークによって始められた。こののちロシア人は国の重要な財源でもあった毛皮を求めてコサックを尖兵に東進を続け,早くも17世紀半ばにオホーツク海と太平洋の岸に達した。彼らはさらにアムール川流域への進出もはかったが清国にはばまれ,1689年ネルチンスク条約を結んだ。ロシアの公式記録にはじめて出てくる日本人デンベイ(伝兵衛)がカムチャツカ半島に漂着したのは17世紀末のことである。

カザン・ハーン国占領やシベリア征服では,15世紀にロシアに伝来した火器が威力を発揮した。イワン3世以来モスクワでは,封建的な騎兵部隊を主力としつつ,砲兵隊と銃兵隊が組織され,後者はモスクワなどの警備につくとともに,オカ川沿いの南部国境に築かれた防塞(ぼうさい)にも配置された。士族の多くも国の南部にポメスチエを与えられたが,これはワシーリー3世のときから激しくなったクリミアのタタールの略奪的遠征に備えたものであった。タタールには多くの住民が連れ去られ,奴隷として売却された。これに対してイワン4世はボルガ流域制圧後クリミアにも軍を送ったが目的を達せず,リボニア戦争中の1571年には侵入したタタールにモスクワを焼かれた。ボリス・ゴドゥノフはコサックにタタールの動きを牽制(けんせい)させる政策を強めたが,17世紀前半クリム(クリミア)・ハーン国は,スムータで弱ったモスクワから莫大な〈贈物〉をとりたて,しかも侵入の手はゆるめず,1650年までに約20万のロシア人が連れ去られた。また1632-34年のポーランドとの戦争の最中ロシア側では,タタール侵入の報に接した南部出身の士族が戦場を去り,これが敗戦の一因になった。このため政府は戦後,南部国境の防衛線を強化する一方,外人士官の指揮する常備軍の整備を急いだ。三十年戦争後,失業した外人士官が多数ロシアを訪れ,アレクセイの末年には徴集兵による新式連隊がロシア軍の2/3を占めるに至った。農民や市民からの徴兵に頼った点でロシアは先進国であった。クリミア遠征は摂政ソフィアのときにも側近の貴族ゴリーツィン公によって2度行われたが,いずれも失敗に終わり,これがソフィア政権の命とりになった。

西方との関係ではすでにイワン3世がバルト海への進出を考え,リボニアの騎士団に圧力を加えていたが,イワン4世がリボニア戦争を始め,これはロシアの強化を恐れるリトアニア・ポーランドとスウェーデンの参戦で敗戦に終わった。こののちボリス・ゴドゥノフがスウェーデンから失地の一部を回復したが,続いておこったスムータでロシアは両国に広い領土を奪われ,完全に内陸に封じこまれた。スムータ期の外国軍隊の侵入,とくにポーランド軍のモスクワ占領は一時,ロシア人の間に宗教的排外意識と外人嫌い,とりわけ反カトリックと反ポーランドの感情をひろめ,これを背景にフィラレートは一種の思想的鎖国政策をとった。また彼はワシーリー3世が回復してスムータで失ったスモレンスクの奪回を考え,そのためスウェーデンに接近し,1632年前記の対ポーランド戦争をおこした。しかしロシアはこれに失敗し,バルト海への再度の進出をめざした55-58年の対スウェーデン戦争も成果を生まなかった。しかしポーランドに対して反乱をおこしたウクライナ・コサックのフメリニツキーがツァーリの主権を認め,これがもとになったポーランドとの戦争(1654-67)では,ロシアはいち早くスモレンスク地方を回復し,アンドルソボの休戦(1667)では,ドニエプル川東岸のウクライナと,その西岸のキエフなども手にし,86年の〈恒久平和〉でこれを確実なものにした。

ウクライナへの進出でロシアは,クリム・ハーン国の宗主でみずからも黒海北岸に領土をもつトルコとの宿命的対決に入ったが,他方ではウクライナは,モスクワにとって西方の文化が入ってくる重要な通路であった。フィラレートの鎖国政策にかかわらず,そしてスモレンスク敗戦で〈聖なるロシア〉の自負と教会内外の保守派に動揺が生じてからはなおさら,17世紀のロシアには西方の文化や思想が入ってきた。その場合,同じ東スラブ系でギリシア正教を奉じながらポーランドの支配下で西方文化にも浴していたウクライナは,同じ条件の白ロシア(ベロルシア)とともに主要な西方への通路となった。おもにこの通路を経て17世紀のロシアには西欧文学の翻訳書が流布し,ウクライナを経てゴシック建築が入った。アレクセイの宮廷詩人で,のちのフョードル3世や摂政ソフィアの家庭教師でもあったS.ポロツキーも白ロシアの出身であった。彼はキエフ神学校に学んだが,ニコン総主教の改革もこの神学校出身の学僧たちの批判をうけて行われた。この学僧たちをモスクワに招いたのはアレクセイである。ツァーリは1652年モスクワに〈外人集落〉をつくり,その素人劇団が72年世俗劇を上演した。ロシア人の文学作品でも,世俗的主題のものが17世紀には多くなり,イコン(聖像画)の伝統を継ぐ肖像画も写実的になった。

 西方文化への関心は16世紀の君主にもみられ,ボリス・ゴドゥノフがはじめて西方へ留学生を送ったが,彼らは留学先から帰ってこなかった。イワン4世も西方との交流に熱心で,イギリス女王エリザベス1世と文通し,当時すでにかなりの数の外国人がモスクワに住み,なかにはツァーリに仕える者もいた。モスクワに住んでいた者やロシアを訪れた商人,外交官の報告で,16世紀には西方にもロシアのことはかなり知られるようになった。外国との公式の接触はイワン3世の代からふえ,継続的な外交関係も始まっていた。イタリア人専門家が招かれてクレムリンの城壁と教会堂の建設に当たったのもイワン3世のときであった。これはイタリア・ルネサンスがロシアに残した記念碑であるが,中世末のモスクワ文化自体,キエフ・ロシアの文化への強い関心という点も含め前期ルネサンス的性格をもっていた。16世紀の国家的事業としての年代記編集や,イワン4世の師傅(しふ)でもあったロシア府主教マカーリーを中心とするグループによるロシア聖者伝の一大集成は,モスクワ国家とロシア教会の統一理念の高揚を物語っていた。教会はストグラフ会議で典礼の統一をはかり,モスクワの府主教座も1589年,ギリシア正教会で5番目の総主教座に昇格した。16世紀にはまた,いわゆる政治評論的著作が多数書かれるが,それらを代表したクルプスキー公にあてた書簡でのイワン4世の君主観には,イタリアのマキアベリのそれを思わせるものがあった。これはルネサンス期西欧思想とのいわば並行現象であるが,15世紀のノブゴロドの異端などには明らかに西方の影響が認められる。ルネサンス的な異国趣味や修道院生活の退廃も16世紀のロシアにはみられ,続く17世紀はロシアでも西方と同様,魔女裁判の最盛期になった。ロシアにおいて異教との二重信仰のあとを残しながら,キリスト教が民衆の生活を深くとらえるようになるのも,モスクワ・ロシアの時代からといえる。
ロシア帝国
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世界大百科事典(旧版)内のモスクワロシアの言及

【ロシア】より

…初めは小さな勢力にすぎなかったモスクワ公国がしだいに周辺の諸公国を併合していき,1480年にはモンゴル族のつくったキプチャク・ハーン国の支配を脱して,モスクワ大公の主権のもとに北東ロシアの政治的統一が達成された。これがモスクワ・ロシアあるいはモスコビアMoskovieである。
[広義と狭義のロシア]
 しかしルーシの名称は,モスクワ国家によって独占されたわけではなく,かつてのキエフ・ロシアの南西部にも残った。…

※「モスクワロシア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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