三宅廃寺(読み)みやけはいじ

日本歴史地名大系 「三宅廃寺」の解説

三宅廃寺
みやけはいじ

[現在地名]南区南大橋一丁目

福岡平野の那珂なか川中流域左岸低丘陵に奈良時代初頭に建立された寺院跡。「続風土記拾遺」には屯倉跡と記載され、かつては「日本書紀」宣化天皇元年五月一日条に記されたいわゆる「那津」官家と関連付けられることもあったが、現在同官家跡は博多区の比恵ひえ遺跡群に比定されている。「醍醐雑事記」によれば平安時代には山城醍醐寺円光えんこう院末寺として「筑前国三宅寺」があり、当寺に関するものと考えられている。昭和五二年(一九七七)以来数次の発掘が行われているが、伽藍の配置などは不明。

三宅廃寺
みやけはいじ

[現在地名]平和町下三宅

日光につこう川と三宅川の合流点から北方二キロの沖積平野自然堤防上に立地する寺院跡で、二種の軒丸瓦出土した。一つは白鳳様式の周縁に重圏のめぐる単弁六弁蓮華文瓦で、外区重圏文が幅広く、内区蓮華文の小さい特殊なものだが、古い構成要素をもつ瓦であり、他の一種は単弁十弁蓮華文瓦で、一宮市妙興みようこう寺出土瓦に類似し、奈良時代前期も新しい段階に位置付けられる。

三宅廃寺
みやけはいじ

[現在地名]豊岡市三宅

中嶋なかじま神社に近い小字トウ屋敷やしきから軒丸瓦の完形品や鴟尾片および基壇の一部が出土、当地域一帯の歴史的環境から白鳳期の寺院の存在が考えられている。同神社の明応一〇年(一五〇一)五月二八日付上造月記写に「不死薬琳寺」の名がみえ、これを出土遺物と結びつけ、出土地(寺跡)を薬琳廃寺とよんできたが、両者の関連はまったく証明されていない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報