三拾町村
さんじつちようむら
[現在地名]姶良町三拾町
女生岳の南山裾にあり、東は鍋倉村、南側を別府川が東流する。集落の南・東・西の三方を田地に囲まれる。三十町村とも記される。伝承によると、弘安年間(一二七八―八八)は一面の湖であったといわれ、西の船津から当地まで三〇町隔っていたのが地名の起りという(姶良町郷土誌)。江戸時代の郷帳類に千本村がみえる。寛政六年(一七九四)の帖佐由来記(県立図書館蔵)に千本村は三拾町村に含まれるとあるが、天保元年(一八三〇)の帖佐来歴(姶良町歴史民俗資料館蔵)には千本村は洪水のため今はなしと注記されている。
三拾町村
さんじつちようむら
[現在地名]祖父江町祖父江
三拾町野村ともいい、東と南は下祖父江村に接し、西は木曾川に接する。江戸時代には馬飼村・川東村・拾町野村とともに美濃国の中島郡に属していた。「濃州徇行記」には慶長一九年(一六一四)給人付のとき毛利掃部の知行三千石の内になったが、正保二年(一六四五)概高制のとき替地になり、以後蔵入地となった。さらに「此村ハ木曾川ノ堤東ニアリ民居皆堤傍ニツケリ竹木茂リ一村立ノ処ナリ小高ニテ貧村ナリ農事ヲ以テ専世産トス庄屋弥兵衛ハ紺屋ナリ」といい、産物は「畠物ハ麦ノ外大豆小豆小物生綿蕎麦ナト又芋午旁大根ナトツクレリ其内此村ハ下祖父江ツツキニテ菅大臣島木綿ヲ織出シ渡世ノ助トスルモノモアリ」と記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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