三里村
さんりむら
[現在地名]鷹島町
三里免・
船唐津免 鷹島村の南西に位置し、南西の崎に番屋山がある。松浦党の祖とされる松浦久が志佐郷今福の梶谷城(現松浦市)に居城していた頃、鷹島の原免の日本山に出城を築き、里に屋敷を構え、三里に広久山満福寺を建立したという(明治初年に廃寺)。久の子の直が久安四年(一一四八)に勧請したというのが今宮神社(熊野今宮明神とも)とされる(松浦家世伝)。
三里村
みつさとむら
[現在地名]合川町三里
北流する小阿仁川下流域左岸、流路が東に半円を描く所に位置する。対岸は摩当沢村。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「六拾八石九斗弐升一合 二つ里村 こん田村」とみえる。中世後期を通じ嘉成氏領であったが、天正初め頃安東(秋田)氏に包摂される。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では二三一石とある。享保一五年(一七三〇)の戸数は三三軒で、枝郷は天和四年(一六八四)開発の戸数七軒の大内沢村があった(六郡郡邑記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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