日本歴史地名大系 「三関村」の解説 三関村さんのせきむら 宮城県:黒川郡富谷町三関村[現在地名]富谷町三ノ関南は富谷村、東は北目大崎(きためおおさき)村(現大和町)、北は志戸田(しとだ)村、西は二関村。竹林(たけばやし)川が北部を東北に流れ、北岸に水田が広がる。一関・二関両村と同様に、「和名抄」黒川郡新田(にうた)郷に比定され、志戸田村、下草(しもくさ)村・舞野(まいの)村(現大和町)を結ぶ田園とともに条里制がしかれた地域と考えられ、地名は竹林川と宮床(みやとこ)川上流域の三番目の堰(関)があったことによると考えられている(富谷町誌)。慶長年間(一五九六―一六一五)から寛永一一年(一六三四)まで伊達宗清の知行地。のち万治三年(一六六〇)まで藩直轄地。以降は伊達宗房の知行地となる(宮床村史)。正保郷帳では田四四貫七五九文・畑七貫三八二文。 三関村さんのせきむら 岩手県:一関市三関村[現在地名]一関市三関・関が丘(せきがおか)・東台(ひがしだい)・沢(さわ)一関村の東、磐井(いわい)川南岸にある。東は滝沢(たきざわ)村・狐禅寺(こぜんじ)村。平泉中尊寺蔵の文明一六年(一四八四)三月一三日および延徳四年(一四九二)五月二六日付の平朝臣四郎左衛門尉清泰奉納の巡礼棟札に「奥州西岩井群三堰」とある。慶長六年(一六〇一)の留守政景知行目録写(留守文書)に「三のせき」とあり、四五貫一五七文が留守氏知行。正保郷帳では田三六貫四一〇文・畑七貫五二五文。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報