上ノ国村(読み)かみのくにむら

日本歴史地名大系 「上ノ国村」の解説

上ノ国村
かみのくにむら

[現在地名]檜山郡上ノ国町字上ノ国・字向浜むかいはま・字原歌はらうた・字大崎おおさき・字勝山かつやま・字新村しんむら・字中須田なかすだ・字豊田とよた・字桂岡かつらおか・字小森こもり・字早瀬はやせ・字宮越みやこし・字湯ノ岱ゆのたいなど

現上ノ国町の北部に位置し、中心部はあまノ川下流域から河口部の南岸地域。西に突き出たシネコ岬から河口までの湾入部は船懸りがよく、大澗おおまが古くから湊として利用された。この重要な湊を守護するために、河口を望む周縁丘陵には近世以前に洲崎すざき館・花沢はなざわ館・勝山館などの館が築かれていた。「地名考并里程記」に「上の国」という地名は「和語なるべし。昔時、松前家先祖此所へ住居せしゆへ此名ある哉。未詳」とある。

津軽一統志」に「上の国イソヤと申所」「上の国はあゐぬま くま石 せき内三ケ所」とあり、「狄蜂起集書」には「上ノ国より下ノ国へ山中通筋」として、嶋小巻(シマコマキ、現島牧村)の手前の瀬田内(セタナイ、現瀬棚町)から下ノ国のクンヌイ(国縫、現長万部町)まで二日ほどとみえる。当時は広域名称として松前城下から東海岸を「下ノ国」と称したのに対し、西海岸を「上ノ国」と称していた。「津軽一統志」によると、狭義の上ノ国は家数一四〇―一五〇、狄(アイヌ)もいるとある。「狄蜂起集書」によると、寛文一〇年(一六七〇)に三百五、六〇から四〇〇人ほどの山師が「上国檜山」に伐採に入ったという。一六世紀末頃から本州諸国で城下町建設に伴う建築用材の需要が高まると、檜材交易は蠣崎氏の主要財源となった。同氏は檜山、山師、交易業務などを取締るため慶長元年(一五九六)檜山山監を上ノ国に置いたという(江差町史)。しかしアッサブ(現厚沢部町)の檜山の伐採が始まると、山監は延宝六年(一六七八)に江差に移されて檜山番所と改称され(福山秘府)、以降政治・経済の中心地は江差に移行する。元禄郷帳には「かみの国村」、享保十二年所附には当地内に比定される「しねこ」「縄六間」「鳥井泊」「水なし」「原歌」「地獄間」「もんじよ」「もよ狩」「すめき石」「上ノ国村」がみえる。天保郷帳に上之国村と大留おおどめ村枝村としてトマップ村・早瀬村がみえる。

上ノ国村
かみのくにむら

明治三五年(一九〇二)から昭和四二年(一九六七)までの村。明治三五年に檜山郡のうち上ノ国村・石崎いしざき村・大留おおどめ村・きた村・木ノ子きのこ村・汐吹しおふき村・小砂子ちいさご村が合併して二級町村上ノ国村が成立。旧村名は大字名として継承された。同一〇年七大字が廃止され二六字に編成された(続上ノ国村史)。明治・大正期の産業の中心は漁業であったが、副業として畜産・林業とともに未開地を開墾して進められた農業が展開し、昭和一〇年代には中外鉱業上国鉱業所の操業により鉱業も盛んになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報