早瀬村(読み)はやせむら

日本歴史地名大系 「早瀬村」の解説

早瀬村
はやせむら

[現在地名]智頭町早瀬

土師はじ川を挟み竹内たけのうち村の対岸に位置する。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳に「いなはミたのかう はやせ村 七郎衛門やと」とみえ、また同所として大郎衛門・さこ・二郎兵衛・五郎兵衛・左衛門などの名が載る。藩政期の拝領高は五五石余。宮脇氏の給地があった(給人所付帳)天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高六〇石余、毛付高九一石余、本免六ツ六分、同年の物成高五七石余、ほかに藪役銀五匁三分が課されていた。天明―寛政年間(一七八一―一八〇一)のものと推定される書上(古田家文書)では田畑畝数六町一反余、家数一六・人数五六、牛一一。


早瀬村
はやせむら

[現在地名]上月町早瀬

上月村北東仁位にい村の北に位置する。中央を佐用川が流れる。同川北岸沿いを美作道が通る。古代の佐用郡速瀬はやせ(和名抄)の遺称地。慶長四年(一五九九)二月六日、宇喜多秀家は戸川肥後守に「早瀬」の一三九石余の地を宛行っている(「宇喜多秀家領地宛行状」秋元興朝氏所蔵文書)。慶長国絵図に早瀬村とみえる。江戸時代の領主の変遷は慶安二年(一六四九)までは上月村に、以後は仁位にい村に同じ。


早瀬村
はやせむら

[現在地名]戸田市早瀬一―二丁目

下笹目しもささめ村の南、荒川の北岸にある。古鎌倉こかまくら街道南北に縦貫する。下笹目村枝郷。元禄一〇年(一六九五)の下笹目村検地帳写(栗原家文書)では早瀬分、元禄国絵図元禄郷帳には下笹目村枝郷として早瀬村が記載される。村名は「はやぞ」ともよぶ。足立郡笹目領に属し、村内に内谷うちや(現浦和市)の飛地夏浜なつはまがある(風土記稿)幕府領。前掲検地帳写によれば、すべて畑地で、高二〇石余、反別一一町一反余。ほかに御用萱野一三町七反余、早瀬野という萱野一六町一反余(野銭永一七貫七六五文)があった。村民は早瀬渡を経て荒川対岸下赤塚しもあかつか(現東京都板橋区)に出作を行い、文政三年(一八二〇)にはその高五〇石までになっている(「下赤塚村分反高帳」栗原家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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