松前城下(読み)まつまえじようか

日本歴史地名大系 「松前城下」の解説

松前城下
まつまえじようか

近世の福山城の城下町。福山城下・松前町・福山町ともいう。主として松前藩領、一時期幕府領、明治初年は館藩領であった。松前の地名について上原熊次郎は「夷語マトマイと申候得共、ヲマツナイなり。則婦人の在す沢と訳す。扨、ヲとはヲカイの略語にして有る又は在すと申事。マツとは婦人と申事。ナイとは沢又渓と申事なり」と記し、また神明社近くの小川を「はつこ沢」というのは「ヲマツナイの古事なるべし」とする(地名考并里程記)。南は松前湾に面し、背後には東から七面しちめん山・神止かみとめ山・勝軍しようぐん山・御髪おぐし山などの山塊が迫る。わずかな海岸段丘伝治沢でんじさわ川・大松前おおまつまえ川・小松前こまつまえ川・唐津内沢からつないさわ川などによって開析された沢地、段丘下の海浜地に形成されている。大松前川・小松前川の河口入江を中心に松前湊があり、城下南西端の海上には弁天べんてん島を望む。北西の境は立石たていし野とよばれ、けわい坂の途中には立石野番所があり、東境の根森ねもり番所とともに番所の内側が城下であった。福山城は城下のほぼ中央南寄りの段丘上にあり、背後にてら町が形成されている。城下を訪れた松浦武四郎は「縦街七ケ町、横町六ケ町、裏町拾数ケ所」「商戸二千五百余、藩士六百軒、人口壱万五千に出ると云り。実に海外の一大輻湊の地と云べし」と記す(「蝦夷日誌」一編)

〔松前城下の特徴〕

慶長一一年(一六〇六)に福山館(城)が完成するが、それ以前の徳山とくやま(大館)時代の町の様子は不明であり、館を中心に大松前川の奥まった地域に町があったらしい。「松前家記」などには元和五年(一六一九)に寺町と大館おおだて町を城下に移したとあり、築城を機に福山館の前面と東西の台地に町屋・武家屋敷が集められたと考えられるが、寺町のように計画性をもったものではない。江戸や諸国から訪れた人々の目にはとくに奇異に映ったらしく、紀行文を含め多くの記録に記されている。政治都市でありながら経済都市の色彩がきわめて強かった。武士人口の比率は低く、安永六年(一七七七)は二五・四パーセント(松前広長「松前志」)、嘉永三年(一八五〇)には足軽を含めても二三・二パーセントで(函館市史)、八割近くが町方人口であった。加えて湊町であることから、「諸年貢納めず、武家にて漁を致し、又わ商ひを致して暮しけるが、段々繁昌し他国より出店抔いたし日増に賑ひ、夫々准し城下のやうに相成り」(「蝦夷国私記―糺明録」市立函館図書館蔵)と開放的な風俗、「床に花を活、金銀の屏風を建て、毛氈をしき並べ、(中略)風俗容躰、衣類に至るまでも、上方筋の人物に少しも劣らぬ」(東遊雑記)と華美を好み消費的な傾向、女性は「夫を不持、壱人店借住居ニ而、舩手之者并店向之洗張等ニ而相暮候者も有之」(文化六年「村鑑下組帳」松前町蔵)などと、経済的自立が強いという特色が指摘されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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