上川道路(読み)かみかわどうろ

日本歴史地名大系 「上川道路」の解説

上川道路
かみかわどうろ

明治中期、石狩国内の岩見沢旭川を結んだ道路。石狩道路(石狩新道)とも称し(北海道道路史)、のちの国道一二号にあたる。北海道中央部を貫通する道は一七九八年(寛政一〇年)頃に近藤重蔵が蝦夷地の内陸路としてその重要性を指摘し(「蝦夷地絵図」近藤重蔵蝦夷地関係史料)、一八五七年(安政四年)頃には松浦武四郎もその必要性を主張していたもので(燼心余赤)、当道路はその実現であった。上川地方など北海道内陸部の開発にとどまらず、札幌―旭川―網走釧路を陸路で結んで北海道の防備に貢献する基幹道路でもあり、旭川から道東へは明治二四年(一八九一)北見道路として完成し、上川道路と合せ中央道路とも総称される。なお当道路敷設以前の明治一五年には幌内ほろない炭鉱(現三笠市)開坑に伴う幌内鉄道開通しており、樺戸かばと集治監(現月形町)・空知集治監(現三笠市)も設置されていた。明治五年開拓使役人高畑利宜は上川郡忠別太ちゆうべつぶと(現旭川市)を拠点に上川一帯の地勢を調査、同六年英人ポルトを層雲峡そううんきよう(現上川町)まで案内するなど(滝川市史)、開拓使きっての上川通であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報