上木崎村(読み)かみきざきむら

日本歴史地名大系 「上木崎村」の解説

上木崎村
かみきざきむら

[現在地名]園部町上木崎町かみきざきまち河原町かわらまち

下木崎村垣内かいち村・瓜生野うりうの村の西に位置し、北は熊崎くまざき村、南は黒田くろだ村・上横田かみよこた村。東西に細長い大村であるが、西方山地で船井郡の分水界をなす。村内を京街道が走り、三戸野みとの(現観音峠)を西に越えると新水戸しんみと(現丹波町)に至る。園部藩領。

大炊寮の長官で今安いまやす(現福知山市)と関係のあった中原康富は、文安六年(一四四九)六月九日天田郡の郡司のもとを訪れ、翌一〇日帰京の途についたが、その時のことを「康富記」同年同月一一日条に「昨夜宿美都みと、今朝立美都、於木崎一盞、於大江分をいわけ昼食」と記す。

上木崎村
かみきざきむら

[現在地名]浦和市上木崎一―八丁目・駒場こまば二丁目・はり三丁目・大原おおはら二―三丁目・さき一丁目・同五丁目

針ヶ谷村の北に位置する。東は下木崎村、北は北袋きたぶくろ(現大宮市)。中山道と赤山あかやま街道が通り、下木崎村との境を見沼代用水(西縁)が流れる。永禄三年(一五六〇)一二月晦日の太田資正判物(潮田文書)に「大宮・浦和之宿、木崎・領家方」とあるが、この文書は検討を要する。同八年梶原政景は三戸十郎の戦功を賞し、「木崎之郷之内」細谷刑部左衛門尉の抱地を宛行っている(七月二日「梶原政景書状」三戸文書)

徳川家康の関東入国後は木崎村として、のちの上木崎・下木崎両村のほか、瀬ヶ崎村駒場村をも含んでいたと思われる(郡村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android