上村彦之丞(読み)カミムラ ヒコノジョウ

20世紀日本人名事典 「上村彦之丞」の解説

上村 彦之丞
カミムラ ヒコノジョウ

明治期の海軍大将,男爵



生年
嘉永2年5月1日(1849年)

没年
大正5(1916)年8月8日

出生地
薩摩国鹿児島(鹿児島県鹿児島市)

学歴〔年〕
海軍兵学寮卒

経歴
薩摩藩士の家に生まれ、慶応3年赤松小三郎に英式兵学を学ぶ。明治元年鳥羽伏見の戦に従軍し、ついで会津に転戦した。3年上京、12年海軍少尉に任官し、イギリスに留学。横須賀鎮守府参謀を経て、日清戦争には海軍大佐・秋津洲艦長として従軍、日露戦争では海軍中将・第2艦隊司令官として37年8月蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃滅。38年日本海海戦にも大勝利をあげた。43年大将に進み、第1艦隊司令長官軍事参議官などを歴任した。大正3年予備役編入。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「上村彦之丞」の解説

上村彦之丞

没年:大正5.8.8(1916)
生年:嘉永2.5.1(1849.6.20)
明治大正期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士上村藤一の長男。慶応4(1868)年鳥羽伏見の戦に従軍,明治4(1871)年海軍兵学寮に入学。アメリカ渡航後少尉補に任官。西南戦争には官軍艦「雷電」で神戸の警護を担当。27年中佐に進み「秋津洲」艦長を務め日清戦争の黄海海戦で清艦を撃沈した。36年常備艦隊司令長官。37年日露戦争に第2艦隊司令長官としてロシア東洋艦隊の主力,ウラジオ艦隊の警備に当たったが虚を突かれ日本近海で陸軍輸送船,漁船などを拿捕・撃沈された。非難を浴びた上村は蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を破り名誉を回復。38年5月日本海海戦には東郷連合艦隊に参加してバルチック艦隊撃破し,功一級金鵄勲章を受章した。43年海軍大将に進み軍事参議官。海上勤務の生涯だったため「船乗り将軍」といわれた。<参考文献>小笠原長生編『類聚伝記大日本史』13巻,松下芳男『日本軍閥の興亡

(影山好一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上村彦之丞」の解説

上村彦之丞 かみむら-ひこのじょう

1849-1916 明治時代の軍人。
嘉永(かえい)2年5月1日生まれ。明治12年海軍少尉に任官。日清(にっしん)戦争には秋津洲(あきつしま)艦長として出征。海軍教育本部長をへて第二艦隊司令長官となり,日露戦争では蔚山沖でウラジオストク艦隊を撃破。43年大将。大正5年8月8日死去。68歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。海軍兵学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「上村彦之丞」の解説

上村 彦之丞 (かみむら ひこのじょう)

生年月日:1849年5月1日
明治時代の軍人。海軍大将
1916年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android