日本歴史地名大系 「上横山村」の解説 上横山村かみよこやまむら 新潟県:両津市上横山村[現在地名]両津市上横山西方の横枕(よこまくら)山山麓に広がる台地上の村。北は長江(ながえ)村、東は釜屋(かまや)村、南は立野(たての)村、横枕山を境に現金井(かない)町と接する。天正一七年(一五八九)八月一日の吉井之内出置地覚(歴代古案)に「横山 一ケ所」と記され、上杉景勝の在番衆代官清水内蔵助・富所伯耆守の知行地。五軒の別格の有力百姓とそれに続く八人の長百姓があり、寛政四年(一七九二)の八屋敷定書(上横山区有)では、座席の順次について定めている。元禄七年(一六九四)の検地帳(上横山区有)では田四四町三反余・畑一四町五反余・茶畑八反余。 上横山村かみよこやまむら 福岡県:八女郡上陽町上横山村[現在地名]上陽町上横山北川内(きたがわち)村・久木原(くぎはら)村の北にあり、横山川が南西に流れて星野(ほしの)川に合流する。北部の耳納(みのう)山地を越える弦掛(かんかけ)峠(現かんかけ峠)では天明年間(一七八一―八九)に銅矛(弥生時代の中広形銅矛か)が発見されたという(筑後将士軍談)。発心(ほつしん)山の発心城跡(県指定史跡、遺構範囲は現久留米市・浮羽郡田主丸町にわたる)がある。近世前期は北川内組に属し、地下掛として松崎(まつざき)名など一一名があった。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録(筑紫家文書)に「北河内横山村」とみえ、高八二石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳に北川内村上横山名として高二三六石とあり、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田四町一反余・開田七町七反余・畑田三町四反余・畑八町余・作畑一町五反余・居屋敷九反余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by