日本歴史地名大系 「両津市」の解説 両津市りようつし 面積:二三五・五四平方キロ佐渡島の東部に位置し、市街地中央から両津湾沿いにS字形に伸びる海岸線は八四キロに及ぶ。両津湾と加茂(かも)湖に挟まれた帯状平坦地は、市域のほぼ中央で市街地を形成。湖岸周辺台地上に集落が広がる。北西部の大佐渡山地を背に相川(あいかわ)町・金井(かない)町と接し、南東部の小佐渡山地で新穂(にいぼ)村・畑野(はたの)町と境する。北の内浦(うちうら)・内海府(うちかいふ)海岸、南の前浜(まえはま)海岸ともに海岸段丘は狭く、集落はその段丘下に臨海集落をなし点在する。両津の地名は夷(えびす)・湊(みなと)両町の二つの港(津)を合して両津町と称し、文政(一八一八―三〇)頃の小泉蒼軒の「佐渡国道程指掌」には「夷町・湊町をこめて両津という」と記される。〔原始・古代〕加茂湖岸台地上には、佐渡では数少ない縄文時代中期の遺跡が椎崎(しいざき)、湖北の福浦(ふくら)・秋津(あきつ)にあり、湖岸周辺に多い。河崎(かわさき)の台地上の榎田(えのきだ)遺跡からは縄文中期・後期の土器・石器が出土。採集地は北小浦(きたこうら)・歌見(うたみ)・浦川(うらがわ)・坊(ぼう)ヶ崎(さき)・白瀬(しろせ)・椿(つばき)・平沢(ひらさわ)・加茂歌代の河内(かもうたしろのかわち)など両津湾周辺北部にかけて広く分布。大佐渡山地北端鷲崎(わしざき)に弥生時代のせこの浜洞穴(はまどうけつ)遺跡、小佐渡前浜海岸の片野尾洞穴(かたのおどうけつ)遺跡が確認されている。また両津湾東沿岸砂丘上に奈良時代後期の横穴式石室をもつ円墳の住吉(すみよし)古墳、河崎にも河崎古墳の円墳群がある。「続日本紀」養老五年(七二一)四月二〇日条によれば、佐渡は雑太(さわた)・賀茂(かも)・羽茂(はもち)の三郡となる。賀茂郡衙は、市域の加茂歌代字河内と長江(ながえ)の境界付近に置かれたと推定される。周辺は長江川・貝喰(かいばみ)川・赤井地(あかいじ)川によって形成された扇状地で、「延喜式」神名帳に「阿都久志比古神社」と記載され、加茂氏の氏神を祀る式内社熱串彦(あつくしひこ)神社がこの辺りにある。〔中世〕承久の乱の後、佐渡国は幕府支配となり、佐渡守護には北条氏の一門大仏氏が任ぜられた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報