立野村(読み)たてのむら

日本歴史地名大系 「立野村」の解説

立野村
たてのむら

[現在地名]豊田町立野・長森ながもり

西之島にしのしま村の南西にあり、東部を池田いけだ川、中央部を前野まえの用水が南流し、北を東海道が通る。天竜川左岸沿い、西之島村の西に飛地の長森がある。文明一二年(一四八〇)八月に一雲いちうん(現豊岡村)で行われた授戒会に「タテ野」の平三郎らが参加していた(「血脈衆」乾坤院蔵)。天文一三年(一五四四)六月一八日、池田庄内立野村百姓職などの支配が後藤亀千代に命じられている。

正保郷帳に村名がみえ、幕府領、田方一二五石余・畑方一一五石余、安楽あんらく寺領三石・神明領二石。元禄郷帳では高三三七石余。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領、享保郷村高帳では幕府領掛川藩預地、旧高旧領取調帳は旗本長谷川領。

立野村
たてのむら

[現在地名]川口市西立野にしたての安行西立野あんぎようにしたての

戸塚とづか村の南、長蔵ちようぞう新田の西に位置し、台地と低地が入組む。ほぼ中央を東西に赤山あかやま街道が通る。天正一八年(一五九〇)一月谷古田やこだ八幡宮(現峯ヶ岡八幡神社)近くの立野東養坊で奥州伊達だて(現福島県)の住僧深雪が「菩提心論初心抄上」を書写しており、この立野を当地に比定する説がある(茨城県六地蔵寺蔵「菩提心論初心抄上」奥書)。田園簿では田三八石余・畑一七四石余で、関東郡代伊奈領。寛政四年(一七九二)伊奈氏の改易に伴い上知となり、以後幕末まで幕府領(「寛政重修諸家譜」・改革組合取調書など)。旧高旧領取調帳では高二五九石余。

立野村
たてのむら

[現在地名]両津市立野

大佐渡山系横枕よこまくら山の山裾に広がる散居村。北東は上横山かみよこやま村、南西にかけて三瀬川さんせがわ村・吉井本郷よしいほんごう村・安養寺あんようじ(現金井町)と境する。天正一七年(一五八九)八月一日の吉井之内出置地覚(歴代古案)に「一ケ所 たて野」とあり、寺社神領を除き上杉景勝により清水内蔵助・富所伯耆守の知行地となった。

元禄七年(一六九四)の検地帳(立野区有)には垣ノ内・西屋敷・中屋敷・中屋の地名がみえ、名請人二四人、田一七町六反余・畑一五町六反余。

立野村
たつのむら

[現在地名]三郷町大字立野

信貴しぎ山東南麓、大和川北西岸に立地。勢野せや村の西で竜田たつた大社鎮座地。「日本書紀」天武天皇四年四月一〇日条に「風神を竜田の立野に祠らしむ」の記事がある。古代・中世には立野庄があり、「大和志」に「属邑七」と注し、山上やまがみ今井いまい高山たかやま西浦にしうら馬場ばば下之庄しものしよう坂上さかねなどの集落がある。なお「経覚私要鈔」長禄四年(一四六〇)一〇月一〇日条に河内から大和に入った畠山義就軍が立野を焼払ったことがみえる。

立野村
たちのむら

[現在地名]下田市立野

河内こうち村の南西、稲生沢いのうざわ川が西に蛇行し、同川に蓮台寺れんだいじ川が合流する地点に位置する。北条氏所領役帳に伊豆衆の江川氏の役高として三〇貫文「立野」とみえるが、当地か修善寺しゆぜんじ町立野かは不明。天正一四年(一五八六)一〇月一八日の北条家朱印状(三嶋大社文書)にみえる立野は一〇ヵ所列記されている郷村名の一つでその内容から当地と思われ、このとき未進していた三嶋社(三嶋大社)祭銭を同社神主らが徴収することを命じられた。

立野村
たちのむら

[現在地名]松阪市立野町

村の南西、坂内さかない川の右岸にあり、村域内を和歌山街道が通る。「和名抄」の立野郷は当地より広い範囲と考えられる。元永二年(一一一九)一二月一八日付豊受大神宮松山御厨注進状案(「氏経卿引付裏文書」神宮文庫蔵)に記される松山御厨は「飯高郡立野所在」とあり、四至は「東限飯高郡界 南限蝉山 西限山室迫岡 北限飯高神戸」と記されている。

立野村
たてのむら

[現在地名]草加市西町にしちよう氷川町ひかわちよう高砂たかさご二丁目・住吉すみよし一丁目・神明しんめい一丁目

日光道中草加宿組を構成する一村で、原嶋ばらしま村の南にある。東方日光道中沿いや南方に飛地がある。足立郡谷古田やこだ領に属した(風土記稿)。寛永六年(一六二九)の検地時の様子を伝えるとされる御水帳之面屋敷書上ケ覚(東京都立中央図書館蔵)には、当村は名主屋敷を除き百姓伝馬屋敷一〇軒・二反余。田園簿では田一〇八石余・畑四〇石余、ほかに野銭永三〇四文とある。江戸期を通じ幕府領。元禄八年(一六九五)検地が行われ、同一〇年の検地帳(戸塚家文書)では田一二町九反余・畑屋敷一四町六反余、うち屋敷分は一町二反余(伝馬屋敷九反余)、高外の藪八ヵ所・六畝余がある。

立野村
たてのむら

[現在地名]光市大字立野

北は小周防こずおう、西は三井みい、東は束荷つかり岩田いわた(現熊毛郡大和町)の各村と接する。村の西部を島田しまた川が南西に流れる山間の村で、熊毛宰判に属した。

立野の名は「閥閲録」所収の文明二年(一四七〇)六月一七日付の浦図書家文書に「可令早領知周防国熊毛郡立野保内捌拾石地」とみえるのが早い。村名は慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「小周防立野」、同一五年の検地帳に「小周防立野村」とあり、寛永三年(一六二六)の熊野帳で「立野」と独立記載、「地下上申」で立野村となる。

立野村
たてのむら

[現在地名]長陽村立野

阿蘇外輪山を南・北に分ける火口瀬に位置し、くろ川を合流した白川が西へ流れ出る。阿蘇外輪山内の水の唯一の出口である。中世には阿蘇社領南郷下田しもだに属し、文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所たてのゝ上村まめ一斗 同下むらまめ一斗」とある。

近世は合志こうし郡に属し、慶長一三年(一六〇八)の検地帳によると、人数一七、うち男九・女五・子二・うば一、屋敷持八、牛馬四、田方一反三畝余・畠方一一町四畝余、分米四九石一斗余とある。

立野村
たてのむら

[現在地名]朝来町立野

円山まるやま川を挟んで新井にい村の対岸東方に位置し、北は口多々良木くちたたらぎ村、南は山口やまぐち村。江戸時代初期には朝来郡広谷ひろたに庄一〇ヵ村のなかに含まれていた(寛永一三年「山口八幡神社棟札」同社蔵)。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高二二〇石余、宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高二二五石余。神子畑みこばた川は当地の対岸で円山川に合流する。このため安永九年(一七八〇)柳野呂やなぎのろ堤防ができるまで当村はたびたび洪水に見舞われ、田畑は荒廃を重ねた。同堤防を築いたのは生野代官小林孫四郎政用で、孫四郎はその功績により小林大明神として祀られていたが、現在は祠もなく産土社の馬神まがみ神社に合祀されている。

立野村
たつのむら

[現在地名]浪江町立野

室原むろはら川左岸の台地上にあり、東は酒田さかた村、南は苅宿かりやど村。建武四年(一三三七)五月日の相馬胤時軍忠状(相馬文書)によれば、五月一〇日に「標葉立野原合戦」で先陣を駆け、傷を受けている。同年八月日の相馬朝胤軍忠状(大悲山文書)にも同様のことが記される。正保郷帳では田方四五三石余・畑方二三四石余。元禄郷帳では立野村は高四九九石余、沢上さわがみ新田は高四七九石余。天保郷帳は「古者 立野村・沢上新田弐ケ村」とあり、高九七八石余。寛永一六年(一六三九)の高一千四二石余、明暦二年(一六五六)の高七八八石余、元禄一五年(一七〇二)幕府に届出た高は四七九石余であった(奥相志)

立野村
たてのむら

[現在地名]田主丸町野田のだ

野中のなか村の北に位置する。屋敷地はふる川と恵利津留えりつる溝の間にある(上三郡絵図)。幕末の筑後川絵図(木村家蔵)には川岸通一〇〇間・立野刎一三〇間が描かれる。「啓忘録抜萃」は大川筋淵名として観音かんのん瀬をあげる。本高は三五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三〇石・役高一七一石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦七石三斗余・小麦四石二斗余・菜種三石余(「本地夏物成帳」中村家文書)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一七八石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では開田三町一反余・本畑田二町二反余・畑一〇町余・居屋敷二反余。嘉永元年(一八四八)の作柄は「凡七俵半之田方、六俵半之粟作、尤右村之義ハ田畑共ニ便利宜敷御座候歟」という(「廻村書留」新有馬文庫)

立野村
たちのむら

[現在地名]大月市梁川町立野やながわまちたちの

小篠おしの村の東、桂川右岸の河岸段丘上に位置する。元禄郷帳には枝郷として下畑村がみえ、「甲斐国志」は同じく間山坂を記す。下畑は本村から約二キロほど西方に離れてある。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では高一三七石余。寛文九年(一六六九)の検地帳(県立図書館蔵)によると高一三七石余、反別は一二町七反余。寛政七年(一七九五)の都留郡御成箇郷帳(渡辺正三家文書)によると犬目いぬめ宿(現上野原町)へ助郷役を勤めており、山畑は一町八反余。大工一人役永五〇文・猟師二人役永一〇〇文を納め、年貢米四四石余・永二貫六一一文・大豆三石二斗余が課せられていた。文化(一八〇四―一八)初年の家数六七・人数二九四、馬八(甲斐国志)

立野村
たちのむら

[現在地名]本山町立野

吉野川の支流、南下する汗見あせみ川の西側にあり、汗見村北方に位置する山村。「土佐州郡志」には汗見川あせみかわ村内の一小村としてみえ、「在吉野川北、其北至予州」と記す。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳には「立野名」とみえ、検地面積一四筆一町二反一二代四歩、うち田分三反一八代二歩、畠分二反一六代三歩、屋敷数六で六反二七代五歩。名本分が大部分を占め、公事分が三筆みられる。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば四筆六反一〇代の切畑があり、すべて名本分で小麦と記される。

立野村
たてのむら

[現在地名]市原市立野

豊成とよなり村の東に位置し、東方を久留里くるり道が通る。鎌倉街道かまくらかいどうの地名がある。正保五年(一六四八)の鷹匠・餌指にかかわる公儀からの法度条々(切替家文書)に村名がみえる。正保国絵図では高五一石余。元禄郷帳でも同高で、幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一〇で、旗本小出領とあり、幕末まで同氏領であるが、同氏領は寛文五年(一六六五)以前からとされる。寛政一二年の村明細帳(切替家文書)では年貢米四五俵余・永三貫九二七文余で、小物成は胡麻五升・麦七升。

立野村
たてのむら

[現在地名]谷田部町館野たての

中内なかうち村の南、小野おの川東岸の微高台地に位置。元和二年(一六一六)谷田部藩細川氏領となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高三八五・九七石。明治に入って館野村と表示するようになった。

立野村
たづのむら

[現在地名]大豊町立野

北流する南大王みなみだいおう川が西流する南小川みなみこがわと合流する付近の西岸に位置する山村。「土佐州郡志」は「在八畝村北、東西七町南北六町」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「北地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「立野名」とみえ、検地面積一町七反一七代四歩、うち田分一反二九代、畠分九反四六代五歩、屋敷八・堂床(地蔵堂)一で五反四一代五歩。一部に長宗我部氏家臣都筑平左衛門扣があり、堂床のほかは名本分・公事分からなる。

立野村
たてのむら

[現在地名]八女市立野

新庄しんじよう村の北に位置し、南部を花宗はなむね川が流れる。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「たちの村」とみえ、高三〇三石余。寛文四年(一六六四)の有馬頼利領知目録(寛文朱印留)に立野村とあり、本高は三三一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高六〇九石・役高四七九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四八〇石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二八町一反余・畑田三町余・畑二町四反余・居屋敷四反余。

立野村
たちのむら

[現在地名]神崎町立野・四季の丘しきのおか

こおり村の南、大貫おおぬき村の南西に位置する。慶長四年(一五九九)の検地では高二一〇石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。寛文四年(一六六四)の井上政清領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、幕末まで高岡藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも高二一〇石余。文化一三年(一八一六)の家数二〇・人数八四(立野区有文書)

立野村
たてのむら

[現在地名]浜松市立野町

四本松しほんまつ村の東に位置し、東は向金折むかいかなおり村。松平忠頼領郷村帳では高八九石余、田二町二反余・畑九町七反余、うち川成一四石余。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録に村名がみえる。領主の変遷は西にし村と同じ。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図には当村と向金折村・西村・蒲島かばしま村を囲む堤防が描かれる。

立野村
たてのむら

[現在地名]庄和町立野

えのき村の南、庄内古しようないふる川左岸に立地する。正保(一六四四―四八)頃に開かれ、慶安(一六四八―五二)頃に立野新田とし、延宝三年(一六七五)に立野村と称したという(郡村誌)。元禄郷帳に村名がみえ、高五九〇石余。江戸時代を通じて幕府領であったとされ、享保一一年(一七二六)の江戸川通川除出入裁許請書(土生津家文書)でも幕府領。

立野村
たちのむら

[現在地名]豊岡市立野立野町

円山まるやま川東岸に位置し、川を挟んで豊岡城下なか町・宵田よいだ町に対する。江戸時代の領主の変遷ははじめ豊岡藩領、正保元年(一六四四)幕府領(以上「寛政重修諸家譜」「寛文朱印留」など)、寛文八年(一六六八)以降豊岡藩領。正保頃成立の国絵図に村名がみえ、高六五五石余。

立野村
たてのむら

[現在地名]上里町嘉美かみ

七本木しちほんぎ村の南に位置し、南は大御堂おおみどう村。田園簿では高四九石余はすべて畑で、旗本新見領。国立史料館本元禄郷帳では旗本佐久間領(幕末に至ったとみられる)。「風土記稿」による家数三二。

立野村
たてのむら

[現在地名]舟橋村古海老江ふるえびえ

白岩しらいわ川の支流ほそ川右岸に位置し、北は古海老江村、西は横沢よこざわ(現立山町)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三五石、免三ツ八歩(三箇国高物成帳)

立野村
たてのむら

[現在地名]海津町立野

長瀬ながせ村の西にあり、南東は日原ひわら村。慶長郷帳に村名がみえ、高一九六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領、正保郷帳では幕府領で、田二五八石余・畑四九石余のうち新開一〇〇石余。

立野村
たてのむら

[現在地名]東与賀町大字下古賀しもこが字立野

現東与賀町の北東で、八田江はつたえに面している。正保絵図に村名がみえる。万延元年(一八六〇)改の郷村帳には、立野村の小字に新ヶ江・坂田小路がみえる。

立野村
たちのむら

[現在地名]吉野町大字立野

吉野川の右岸、伊勢街道に沿い、下流の上市かみいち村に連なる。竜門りゆうもん郷のうち。慶長郷帳では村高九一・四石。旗本中坊左近(秀政)領で、江戸時代を通じて村高・領主に変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報