上河淇水
うえかわきすい
[生]寛延1(1748).11.9. 近江
[没]文化14(1817).10.4. 京都
江戸時代後期の心学者。名は正揚,通称は愿蔵。心学者手島堵庵に学び,師の没後明倫舎3世舎主となる。石田梅岩によって創始された心学は,教化活動の進展とともに思想体系の整備充実が必要になったが,そのなかで淇水は朱子学によって心学の理論づけを行なった。著書に『四書類凾』 (1780) ,『心学承伝之図』などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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上河淇水 うえかわ-きすい
1748-1817 江戸時代後期の心学者。
寛延元年11月9日生まれ。手島堵庵(とあん)にまなび,のちその養子となり分家の上河の姓を名のる。寛政3年明倫舎3代をつぎ,全国に教えをひろめた。文化14年10月4日死去。70歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。本姓は志賀。名は正揚,義言。字(あざな)は子鷹。通称は愿蔵。別号に東海,柿園。著作に「聖賢証語国字解」「心学承伝之図」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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上河淇水 (うえかわきすい)
生年月日:1748年11月9日
江戸時代中期;後期の心学者
1817年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の上河淇水の言及
【石門心学】より
…堺で道話を興行したときは町奉行をはじめ3000人の聴衆が集まった。そのころ京都に上河淇水(うえかわきすい)(1748‐1817)があり,門下の統制を強化することに努め,とくに心学思想の朱子学化を図った。また,異色の心学者として鎌田柳泓(りゆうおう)(1754‐1821)がおり,儒仏老の三教の一致を説くとともに,朱子学も陽明学もその窮極においては一致すると主張した。…
※「上河淇水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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