石田梅岩(読み)いしだばいがん

精選版 日本国語大辞典 「石田梅岩」の意味・読み・例文・類語

いしだ‐ばいがん【石田梅岩】

江戸中期の思想家石門心学の祖。丹波の人。名は興長。通称、勘平。梅岩は号。京都の商家に奉公するかたわら小栗了雲に師事。神、儒、仏三教を合わせた、独自の実践的倫理思想を、特に商人に対して平易に説く。主著に「都鄙(とひ)問答」「斉家論」。他に、門弟編集の「語録」がある。貞享二~延享元年(一六八五‐一七四四

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デジタル大辞泉 「石田梅岩」の意味・読み・例文・類語

いしだ‐ばいがん【石田梅岩】

[1685~1744]江戸中期の思想家。石門せきもん心学の始祖。丹波の人。本名、興長。小栗了雲に師事。実践的倫理思想をわかりやすく説き、町人層に歓迎された。著「都鄙とひ問答」「斉家論」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石田梅岩」の意味・わかりやすい解説

石田梅岩
いしだばいがん
(1685―1744)

江戸中期の思想家で、石門(せきもん)心学の創始者。貞享(じょうきょう)2年9月15日に丹波(たんば)国桑田郡東懸(とうげ)村(現、京都府亀岡(かめおか)市)の農家石田権右衛門の二男に生まれる。母はたね。名は興長(おきなが)、通称勘平(かんぺい)。梅岩(巌)は号。11歳で京都に出て丁稚奉公(でっちぼうこう)したが、15歳で一時帰郷、23歳のときふたたび上京し、商家黒柳家に奉公した。幼年時代より理屈好きで求道的な性格をもち、人の人たる道を探求したいと願い、業務に励みながら独学で神儒仏の諸思想を研究した。35歳ごろからそれまでの自得の信念動揺が生じ、諸方に師を求めるうち、儒仏に通じた小栗了雲(おぐりりょううん)(1668―1729)に巡り会い修行に励む。40歳のとき、いったん開悟したが、さらに1年余の修行を経て自性見識を離れた境地に達した。43歳で奉公を辞し、45歳の1729年(享保14)京都車屋町通御池上ル(おいけあがる)東側の自宅で、聴講自由で席料無料の看板を掲げて講席を開く。初期は聴講者も少なく世評も区々(まちまち)であったが、その教えは彼の誠実な人格と相まって庶民の間に信奉者を増し、弟子の手島堵庵(てじまとあん)や、堵庵門下の中沢道二(なかざわどうに)らの布教活動によって各地に広まり、その学派は石門心学とよばれ、近世思想界に大きな影響を与えた。彼は60歳の延享(えんきょう)元年9月24日、京都の堺(さかい)町通六角下ルの自宅で没し、鳥辺山(とりべやま)延年寺に埋葬された。主著は『都鄙問答(とひもんどう)』4巻、『倹約斉家論』2巻。ほかに門下生との討論をまとめた『石田先生語録』24巻、伝記として『石田先生事蹟(じせき)』などがある。

 梅岩の思想的課題は人間の「性」の本質の探求であったが、彼は朱子学に拠(よ)りながらも神儒仏老荘(ろうそう)の諸思想をも自由に取り入れるという柔軟な思考方法により、独自の人生哲学を樹立した。彼は人の「性」はみな「天」より受け得たもので「全体一箇の小天地」であり、本質的に四民(士農工商)の差別はないという。この自覚と自らの体験に基づき、商人の営利追求を賤(いや)しめ、商人を身分的にも道徳的にも劣等視するという当時の社会通念であった賤商(せんしょう)論を否定し、利潤追求を「天理」として、商人の売利は武士の俸禄(ほうろく)と同等のものと説き、商人の社会的役割の意義を積極的に肯定した。また彼は経済生活上の技術的な徳とされていた「倹約」は、日本の伝統的な主徳として尊重されてきた「正直」の徳に一致すると主張した。梅岩の思想は、道の実践における万民平等と、経済と道徳の関係についての哲学的考察を説くことにより町人の代表的哲学となった。

[今井 淳 2016年4月18日]

『柴田実編『石田梅岩全集』全2巻(1972・清文堂出版)』『柴田実著『石田梅岩』(1962/新装版・1988・吉川弘文館)』『古田紹欽・今井淳編著『石田梅岩の思想』(1979・ぺりかん社)』

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朝日日本歴史人物事典 「石田梅岩」の解説

石田梅岩

没年:延享1.9.24(1744.10.29)
生年:貞享2.9.15(1685.10.12)
江戸時代の代表的な人生哲学,社会教化運動のひとつと目される石門心学の始祖。名は興長,通称は勘平,梅岩は号。丹波国桑田郡東掛村(京都府亀岡市)の農家石田権右衛門,たねの次男。幼くして京都の商家へ奉公に出るが,15歳で帰郷。23歳で再度上京し,商家黒柳氏に20年余にわたり仕えた。そのかたわら,神道,儒教,仏教などを学び,43歳で市井の隠者とされる小栗了雲に邂逅し,「心を知る」の課題を「性は目なし(無我の境地)にこそあれ」と開悟するに至った。45歳のとき,京都車屋町の自宅に講席を開き,聴講無料,紹介者不要の開放的な形式をとって布教に専念した。当初の聴講者はわずかであったが,庶民層に門弟が漸増し,大坂に出講するまでに至った。主著『都鄙問答』(1739)は,門弟の要望を容れて,教説の基本原理を記述したテキストであるが,心学教化運動の原点として後世の教育に深甚な影響を与えた。5年後には梅岩が重んじた倹約について,人間の本性の洞察にまで思惟を深めた『倹約斉家論』が上梓されている。梅岩は,商人の利潤を武士の俸禄に比してその正当性を認め,商人蔑視の社会動向を否定,すすんで万人の心に内在する「性」の深究によって,士農工商は人間としての上下でなく社会における職分と説き,本性の存養こそ人間が真の人間となる要諦とした。<著作>柴田実編『石田梅岩全集』<参考文献>石川謙『石田梅岩と都鄙問答』

(石川松太郎・天野晴子)

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改訂新版 世界大百科事典 「石田梅岩」の意味・わかりやすい解説

石田梅岩 (いしだばいがん)
生没年:1685-1744(貞享2-延享1)

石門心学の祖。丹波の山村の出身。京の商家に奉公しながら独学で儒教を学び,のち小栗了雲に師事した。1729年(享保14)悟りを開き,無縁の町人を集めて聴講無料の講釈を始め,日本における社会教育の草分けとなった。文字になずむ学者を文字芸者とののしり,生きた学問を求め,朱子学を中心としながら,神道や仏教や老荘をも取り入れた。当時世の中で卑しめられていた商人を市井の臣とし,社会的職分遂行の上では商人も武士に劣らないと主張するとともに,商人の反省を求め,悪徳商人を非難して商業道徳の確立を説き,商取引は1対1の対等の場で自由に行われねばならぬと主張した。月に3回商家の主人たちを集めてゼミナールを開き,弟子の養成に努めた。主著《都鄙問答(とひもんどう)》はそのときの問答の抜粋である。倹約を正直の徳と結び,すべての道徳の基礎においた。《倹約斉家論》でその主旨を説いている。
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百科事典マイペディア 「石田梅岩」の意味・わかりやすい解説

石田梅岩【いしだばいがん】

石門(せきもん)心学の祖。通称勘平。丹波(たんば)の農家に生まれる。一時京都の商家に奉公したが,いったん帰郷する。23歳で再び上京し商家黒柳家に仕え,その業に励むとともに儒学などを独学し,〈人の人たる道〉を追求した。45歳(1729年)自宅に講席を開き,死ぬまで,弟子の身分を問わず,平易な言葉で講義を続けた。門下に手島堵庵(とあん)らの人材を出し,一種の社会教化運動ともなった。梅岩の思想は朱子学を基本に神道,仏教,老荘などを取り入れ,社会的職分を遂行するうえでは商人も武士に劣っていないと説き,一方で悪徳商人を非難して商業道徳の確立を主張した。著書《都鄙(とひ)問答》(1739年),《莫妄想(まくもうそう)》《倹約斉家論(けんやくせいかろん)》。→鳩翁道話
→関連項目手島堵庵

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石田梅岩」の意味・わかりやすい解説

石田梅岩
いしだばいがん

[生]貞享2(1685).9.15. 丹波,桑田
[没]延享1(1744).9.24. 京都
江戸時代中期の思想家。石門心学の始祖。名は興長,通称は勘平,梅岩はその号。農家の次男として生れ,宝永4 (1707) 年,2度目の上京で,商家黒柳氏に奉公する。商業にたずさわるかたわら,人間の本質を求め,人の人たる道をきわめたいという念願をいだく。小栗了雲に師事するに及び,大悟の自覚をもつにいたり,享保 14 (29) 年に 45歳で,京都車屋町に講席を設け,「何月何日開講席銭入不申候無縁にても御希望の方々は無遠慮御通り御聞可被成候」と門前に書付けを出し,心学の普及に努める。生涯独身で,以後死去するまで,畿内でもっぱら教えを伝えた。門下に手島堵庵,富岡以直,蒹葭慈音尼らがおり,のちの心学隆昌の基となった。著作『都鄙問答』 (39) ,『斉家論』 (44) ,『莫妄想』など。門弟の編纂による『石田先生語録』 (1806) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石田梅岩」の解説

石田梅岩
いしだばいがん

1685.9.15~1744.9.24

江戸中期の町人思想家,石門心学の創始者。通称は勘平,梅岩は号。丹波国生れ。京都の商家に奉公しながら勉学と思索に努め,隠士小栗了雲に師事。心学の根本である人性の開悟,自身の心と世界の一体性を自覚し,45歳のとき自宅に講席を開いて教化活動を開始。朱子学に由来する用語を多く使い,勤勉・倹約・正直・孝行などの通俗倫理による人間の道徳的自己規律を説いた。商人をはじめ四民の社会的役割を指摘し,賤商観を克服し庶民の人間としての尊厳を強調するなど,社会的に成長してきた町人を主とする庶民層の意識を自覚的に思想化した。著書「都鄙(とひ)問答」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石田梅岩」の解説

石田梅岩 いしだ-ばいがん

1685-1744 江戸時代中期の心学者。
貞享(じょうきょう)2年9月15日生まれ。石門心学の祖。農家に生まれ,京都の商家ではたらきながら独学,のち小栗了雲に師事。享保(きょうほう)14年京都車屋町に塾をひらく。神・仏・儒・老荘をとりいれたその教えは,人間価値の平等や商人の利潤の正当性をみとめていたため,町人を中心として庶民の間にひろまった。延享元年9月24日死去。60歳。丹波桑田郡(京都府)出身。名は興長。通称は勘平。著作に「都鄙(とひ)問答」「斉家論」など。
【格言など】売利ヲ得ルハ商人ノ道ナリ(「都鄙問答」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「石田梅岩」の解説

石田梅岩
いしだばいがん

1685〜1744
江戸中期の思想家。石門心学の祖
丹波(京都府)の農家に生まれ,京都の商家に奉公しながら神道・儒教・仏教などを学び,啓蒙的な庶民道徳の心学を創始。1729年から京都で道話を講じた。性善説を説き勤勉をすすめ,商行為を罪悪視する偏見を打破して大きな影響を与えた。著書に『都鄙 (とひ) 問答』『斉家論』など。門下の手島堵庵 (とあん) ・中沢道二らは心学を平易化,普及させた。

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367日誕生日大事典 「石田梅岩」の解説

石田梅岩 (いしだばいがん)

生年月日:1685年9月15日
江戸時代中期の石門心学の始祖
1744年没

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世界大百科事典(旧版)内の石田梅岩の言及

【都鄙問答】より

…江戸時代の心学の祖石田梅岩の主著。4巻16段。…

※「石田梅岩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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