手島堵庵(読み)テジマトアン

精選版 日本国語大辞典 「手島堵庵」の意味・読み・例文・類語

てじま‐とあん【手島堵庵】

  1. 江戸中期の心学者。字(あざな)は応元。通称近江屋源右衛門東郭(とうかく)先生。京都の人。石田梅巖(岩)に学び、梅巖没後、心学の復興に努め、天明二年(一七八二)講舎明倫舎を建設して第二世舎主となった。梅巖に次ぐ心学の創始者。著に「前訓」「知心弁疑」など。享保三~天明六年(一七一八‐八六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「手島堵庵」の意味・わかりやすい解説

手島堵庵(てじまとあん)
てじまとあん
(1718―1786)

江戸中期の石門心学(せきもんしんがく)者。名は喬房(たかふさ)、信(まこと)。字(あざな)は応元(おうげん)、通称は近江屋源右衛門(おうみやげんえもん)、東郭(とうかく)先生。堵庵と号した。享保(きょうほう)3年5月13日京都に生まれる。石田梅岩(ばいがん)に学び、師の説を平易化し、信と正直を主徳として心の平安を獲得することを強調した。また五楽舎、修正舎、時習社、明倫舎などの心学講舎を各地に設立し、布教に成果をあげ、天明(てんめい)6年2月9日69歳で没。主著に『坐談(ざだん)随筆』(1771)『知心弁疑(ちしんべんぎ)』(1773)『前訓』(1773)『朝倉新話』(1780)などがある。門下から中沢道二(なかざわどうに)、脇坂義堂(わきさかぎどう)(?―1818)らが出た。

[今井 淳 2016年6月20日]

『『増補 手島堵庵全集』全1巻(1973・清文堂出版)』『白石正邦編『手島堵庵心学集』(岩波文庫)』


手島堵庵(てしまとあん)
てしまとあん

手島堵庵

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改訂新版 世界大百科事典 「手島堵庵」の意味・わかりやすい解説

手島堵庵 (てじまとあん)
生没年:1718-86(享保3-天明6)

江戸時代中期の石門心学者。名は信,通称は近江屋源右衛門。堵庵は号。京都の裕福な商家に生まれ,父宗義の薫陶を受け,18歳で石田梅岩の門に入り,やがてその後継者となって心学二世と呼ばれている。平易な言葉で師説を祖述し,心学講舎の制をたてて,教化の普及につくした。《知心弁疑》など著書は20種に及ぶ。また幼児教育にも努め,《前訓》という手引書も著している。《手島堵庵全集》全1巻(1931)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「手島堵庵」の意味・わかりやすい解説

手島堵庵
てじまとあん

[生]享保3(1718).京都
[没]天明6(1786).2.9. 京都
江戸時代中期の石門心学者。名は信,一名喬房,字は応元。堵庵は号で,俗称を近江屋嘉左衛門といった。京都の富商上河家に生れ,18歳のとき初めて石田梅岩の門に入り,心学を修め,20歳で開悟したという。師の没後,居を五楽舎と号して,門弟の育成,心学の普及に努めた。門弟に中沢道二上河淇水らがいる。主著『知心弁義』 (1773) ,『会友大旨』 (74) ,『坐談随筆』『明徳和賛』『新実語教』。

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百科事典マイペディア 「手島堵庵」の意味・わかりやすい解説

手島堵庵【てしまとあん】

江戸時代中期の石門心学者。通称は近江屋源右衛門。京都の商家に生まれ,父宗義の薫陶(くんとう)を受け,18歳で石門心学の祖である石田梅岩の門に入り,後継者となって心学二世と呼ばれている。平易な言葉で師説を祖述し,心学講舎の制をたてて,教化の普及に尽くした。教説の簡易化と普及を意図し,京都に心学舎の明倫舎を建設した。著書は20種に及ぶ。また幼児教育にも努め,子供に心学道話を説く《男子女子前訓》という手引書も著している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「手島堵庵」の解説

手島堵庵
てしまとあん

1718.5.13~86.2.9

江戸中期の心学者。名は信,通称は近江屋源右衛門,のち嘉左衛門,堵庵は号。京都の商家に生まれ,18歳で石田梅岩(ばいがん)に入門。44歳で家業を長男に譲り,以後心学の普及に専念。心学運動の趣旨と規則を定めた「会友大旨」を制定し,運動の中心である明倫舎ほか3舎を設立するなど,運動の組織化と統制に努めた。その教説は梅岩の思想の社会批判の面を弱めて,保守的な自己修養を中心とするものであった。著書「知心弁疑」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「手島堵庵」の解説

手島堵庵 てじま-とあん

1718-1786 江戸時代中期の心学者。
享保(きょうほう)3年5月13日生まれ。家は京都の商家。石田梅岩にまなぶ。明倫舎など心学講舎を各地につくり教化につとめた。門弟に中沢道二(どうに)らがいる。天明6年2月9日死去。69歳。名は信。字(あざな)は応元。通称は近江屋源右衛門,嘉左衛門。著作に「知心弁疑」「私案なしの説」など。
【格言など】心に奢(おごり)ある時は人をあなどる。奢なき時は人を敬う

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旺文社日本史事典 三訂版 「手島堵庵」の解説

手島堵庵
てじまとあん

1718〜86
江戸中期の石門心学者
京都の人。18歳のとき石田梅岩につき心学を学び,梅岩没後は心学教化の講説に専念。門弟の増加につれ,京都に五楽会・修正・時習・明倫・恭敝などの心学講舎をおこした。自己批判を中心とする精神修養を説いた。門下に中沢道二らがいる。著書に『会友大旨』『明徳和賛』など。

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367日誕生日大事典 「手島堵庵」の解説

手島堵庵 (てじまとあん)

生年月日:1718年5月13日
江戸時代中期の石門心学者
1786年没

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世界大百科事典(旧版)内の手島堵庵の言及

【石門心学】より

…梅岩は商人を市井の臣としてその社会的職分を強調し,商業道徳の確立を説いた。梅岩の後を継いだ手島堵庵(とあん)は師の思想を平易化するとともに,心学の同志が集まって切磋琢磨(せつさたくま)する組織として梅岩以来の月次の研究会を会輔と名づけ,会輔席にあてる講舎の制をたてた。京都では堵庵の自宅をあてた五楽舎のほか,明倫舎,脩正舎,時習舎の3舎ができ,この3舎が心学の本山となって,ここから各種の認可証が発行され,これを三舎印鑑といった。…

※「手島堵庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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