日本歴史地名大系 「下三栖村」の解説 下三栖村しもみすむら 京都市:伏見区下三栖村[現在地名]伏見区横大路(よこおおじ)下三栖〈梶原(かじわら)町・里(さと)ノ内(うち)・城(じよう)ノ前(まえ)町・辻堂(つじどう)町・南郷(なんごう)・東(ひがし)ノ口(くち)・宮(みや)ノ後(ごう)・山殿(やまでん)〉北は下鳥羽(しもとば)村、東は下三栖村・伏見町、南は宇治川を介して向島(むかいじま)村、西は横大路村と接する。中世は下三栖庄として推移したと思われるが実態は明確でない。天正三年(一五七五)織田信長は、禁裏をはじめ公家・寺社に新領地を宛行い、特に内侍所以下禁裏の所職に計四三三石を給付したが、その中に塔森(とうのもり)村・吉祥院(きつしよういん)村・嶋(しま)村(以上現南区)とともに当村の地も含まれていた(「織田信長朱印所領配分目録」立入宗継文書)。 下三栖村しもみすむら 和歌山県:田辺市下三栖村[現在地名]田辺市下三栖上万呂(かみまろ)村の東方、三栖川(現左会津川)流域に位置し、熊野街道中辺路が通る。院政期時代の中辺路は当地からほぼ東方へ直進し、山越えして岩田(いわた)(現西牟婁郡上富田町)へ南下していたが、のち当地で分れて三栖川沿いに東北上する潮見(しおみ)峠越の道が開かれ、主道となった。古道沿いに三栖山王子跡があり、また奈良時代創建の三栖廃寺跡もある。平安時代後期以降は三栖庄として推移。慶長検地高目録によれば村高七三九石余、小物成二石一斗九升五合。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by