下保原村
しもほばらむら
[現在地名]保原町 赤橋・泉町・岡代・大田中・大田・烏内・柏町・九丁目・北河原・久保・五丁目・小蓋・栄町・十一丁目・十丁目・十二丁目・城ノ内・下河原・将監・台後・鉄炮町・豊田・七丁目・西猫川・西ノ内・西町・野崎・八幡台・半道・八丁目・東台後・東野崎・東小蓋・東猫川・古町・古川端・舟橋・宮下・村岡・元木・元町・弥生町・大和・六丁目・六万坊
東根川の左岸、阿武隈川の氾濫原に位置し、南は中村、西は小幡村、東は泉沢村。福島、梁川(現梁川町)、掛田(現霊山町)、桑折(現桑折町)、藤田(現国見町)に至る街道が交差する交通の要地で、中村・市柳村などとともに町場化し、保原町とも総称した。「伊達正統世次考」天文二〇年(一五五一)四月一四日条によれば、伊達晴宗が中島義康に下保原の田地を与えており、保原郷が上・下に分れている。なお永正一七年(一五二〇)四月二日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)にみえる村岡郷は当地内に比定され、稙宗は佐藤孫右衛門が富沢から買得した同郷のうち「さやの神田かち作、年貢一貫文」などを安堵している。弘治三年(一五五七)八月吉日の梁川八幡宮祭礼規式写(関根文書)にみえる「室岡」は村岡のことと思われる。
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二千九四石余。近世初期の邑鑑によると高二千二三四石余、免三ツ三分、家数一五三(役家五〇、肝煎・小走四、諸職人・寺・山伏・脇家九九)、人数四六七、役木として桑・紅花、楮少しがある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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