下平井村(読み)しもひらいむら

日本歴史地名大系 「下平井村」の解説

下平井村
しもひらいむら

[現在地名]石和町下平井

鵜飼うかい川を挟んで市部いちべ村の東に位置し、かね川の氾濫原に立地する。東は上平井村、北は鵜飼川を隔てて川中島かわなかじま村。鎌倉街道が村の南を南東に向かって通っていた。中世平井郷に含まれた。慶長一三年(一六〇八)の番帳の一八番に「上平井之禰宜・下平井之禰宜」とみえるが、永禄四年(一五六一)の番帳の一八番に「平井の禰き 両人」とみえるので、永禄頃にはすでに当地は上・下に分れていたと考えられる。慶長古高帳では高六九四石余、幕府領ほかに山王領二石余がある。貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本渡辺・内藤・朝比奈・井出領が設定されており、元禄郷帳でもこの旗本四氏領。宝永二年(一七〇五)甲府藩領、同七年甲府新田藩(柳沢経隆)領となる(同年「甲州御分知郷村高割帳」柳沢文庫)。享保九年(一七二四)幕府領となり、石和代官支配。延享三年(一七四六)に田安家領に組入れられ、幕末に至る(田安領知村高記・旧高旧領取調帳など)

下平井村
しもひらいむら

[現在地名]江戸川区平井一―七丁目

逆井さかさい村の北、中川左岸に位置。北は中平井村、東は西小松川にしこまつがわ村。西の中川対岸は葛西川かさいがわ(現墨田区)で、平井渡が置かれていた。同渡は行徳ぎようとく(現千葉県市川市)と浅草を結ぶ道(通称行徳道)が中川を渡る渡しで、正保期(一六四四―四八)にはあったという(風土記稿)。中世は葛西御厨のうちで、応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)にみえる「下平江 六十五丁 公田四丁三反」は当地に比定される。北条氏所領役帳には小幡源次郎の所領として葛西「下平井郷」一〇〇貫文がみえる。

下平井村
しもひらいむら

[現在地名]新城市平井ひらい

新町しんまち村の北にあり、現在の飯田線東新町駅付近とその北部にあたる。「新城聞書」によると、上平井村とともに中世は平井郷とよばれ、現市域中心部も平井郷の中のごうはらといったという。近世を通じて新城藩領。

近世初頭に上平井村と分れたが、寛永郷帳では一括して平井村と記される。慶長九年(一六〇四)検地帳では田一四町一反余・一八二石余、畑一五町余・一七五石余で屋敷も含めて計三〇町三反余・三七五石余である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報