日本歴史地名大系 「平井村」の解説
平井村
ひらいむら
現日の出町域の東部に位置する。北部は山地丘陵が占め、中央部を平井川が東流する。南部は通称平井ッ原(秋留台地)が広がる。東は
平井村
ひらいむら
- 兵庫県:宝塚市
- 平井村
中世は山本庄のうちで、建武三年(一三三六)五月一八日同庄内平井村が
平井村
ひらいむら
地名は永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)に「平井津」とみえ、当地が国衙領であったこととともに、港湾の地であって国衙の収納所の一でもあったことを示す。古代の紀ノ川は河口が大きく開いて入海をなし、当地域は河北の沿岸であったと推定される。中世にかけてしだいに南西方向に陸地が拡大するが、一〇―一一世紀頃には西隣の栄谷村が「堺の浦」とよばれ(→栄谷村)、また先の収納米帳に「平井津」とみえることから、まだ沿岸の地であったことがうかがえる。中世には
平井村
ひらいむら
- 山口県:山口市
- 平井村
年号不詳であるが文永年間(一二六四―七五)と思われる沙弥覚阿申状(早稲田大学所蔵文書)によれば、覚阿と為貞なる者とが「周防国平井保公文職」をめぐって争っている。また、ニンジョウガ岳の麓にあった廃寺
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
- 栃木県:栃木市
- 平井村
平井村
ひらいむら
- 青森県:五所川原市
- 平井村
岩木川下流右岸に位置し、東は
寛文四年(一六六四)の高辻帳に喰川村支村平井村四七六・六五六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳は支村平井村の田方四〇町八反九歩、屋敷を除いた畑方二一町七反七畝二七歩、田畑屋敷合せて六三町五反八畝一七歩と記す。
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
北は
平井村
へいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
伊自良川上流にあり、村の大部分は山地で、東は
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
- 滋賀県:草津市
- 平井村
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
- 大阪府:和泉市
- 平井村
平井村
ひらいむら
平井村
ひらいむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報