平井村(読み)ひらいむら

日本歴史地名大系 「平井村」の解説

平井村
ひらいむら

[現在地名]日の出町平井

現日の出町域の東部に位置する。北部は山地丘陵が占め、中央部を平井川が東流する。南部は通称平井ッ原(秋留台地)が広がる。東は瀬戸岡せどおか(現あきる野市)など、西は大久野おおぐの村と接する。平井川沿いに御嶽みたけ道が通り、大久野村に達した。往古は千石せんごく明神と称したという春日神社が所蔵する棟札写によれば、延徳五年(明応二年、一四九三)一一月一四日の千石大明神の造営に大檀那として大向吉重、天文一五年(一五四六)一一月一〇日の造営には大檀那として土沢平日奉朝臣顕乗・地頭大向次郎左衛門乗重、元亀三年(一五七二)一月二四日の千石大明神の造営にも大向乗重が大檀那としてみえている。大向日奉氏との記述もあり、大向氏も平山氏の一族と考えられる。天文二〇年九月六日の広徳寺領書立(広徳寺文書)に「平井之内」とみえ、当地を含む九ヵ所の広徳こうとく(現あきる野市)領が大石道俊により安堵されている。永禄五年(一五六二)頃、北条氏は「平井郷伝馬奉行」に対して伝馬定を布告、これによれば、伝馬数は一日三疋であるが、北条家当主の出馬の際には一〇疋に増加する。駄賃は馬一疋一里につき一銭半であるが、飛脚などの場合は印判(伝馬手形)により免じることもあることなどとなっている(六月四日「北条家朱印状」田中文書)。同じ頃、伊奈いな(現あきる野市)・平井両郷の代官・百姓中は、伝馬を隔番で勤めるよう命じられている(六月二一日「北条氏照朱印状」同文書)。なお田中文書二点は都指定文化財。年未詳の一一月一日の塩野勘右衛門差出文書(田中文書)によれば、「平井之半兵衛との」および「同町年寄中」に対して「平井之上宿の市場、下宿のもの」が勝手をするとして訴訟を起こしているが、今後も「まげし紬ノ座、米之座」ともに前々定のごとく行うこと、また家屋敷を勝手に売買しないこととしている。小名中野なかのの曹洞宗宗劔寺(現廃寺)は平井山と号し、開山英山文雄と伝え、開基平井氏は法名平井院忍雄宗劔(天正一八年没という)。その旧跡・館跡は宗劔寺境内およびその一帯で北西に柵跡、東の山際に馬場跡と思われる所があるという(風土記稿)。また小名堀之内ほりのうちは平井村絵図(慶応三年、青木家蔵)では平井川南岸にみえるが、空堀・土塁と思われる遺構が確認されている。


平井村
ひらいむら

[現在地名]宝塚市平井一―七丁目・平井山荘ひらいさんそうみなみひばりガおか一―三丁目・雲雀丘ひばりがおか四丁目・口谷東くちたにひがし一―三丁目・平井

最明寺さいみようじ川の北から東岸に位置し山本やまもと村の東にあたる。川辺かわべ郡に属し、加茂かも(現川西市)から中山なかやま寺に向かう巡礼道が東西に、東部を口谷村から北上する丹波への道が走る。平安後期源頼光四天王の一人で和泉式部の夫摂津守藤原保昌が住み、平井保昌と名乗ったとの伝承がある(摂津名所図会)

中世は山本庄のうちで、建武三年(一三三六)五月一八日同庄内平井村が満願まんがん(現川西市)に寄進された(「山本庄預所某書状写」満願寺文書)。当村の四至は東は鴟谷、西は備後河、南は年振路、北は池山を限るとされる(同年九月一八日「山本庄預所某書下写」同文書)。康安二年(一三六二)九月一七日には「平井山本今池新田田畠荒野」が同寺に寄進された。この時の寄進状によると四至は東は塩谷口、西は中山なかやま坂路御所林、南は他領、北は横峰を限っている。現在の中山寺登山道の東側の地であろう(「多田庄政所田畠荒野寄進状写」同文書)。応安元年(一三六八)八月一三日満願寺領平井村内の歳振井を山本庄の名主百姓らが勝手に盗んだとの訴えに対し、多田ただ庄政所が往古よりこの井の水利権は同寺の支配下にあると裁可している(「多田庄政所沙弥宗光書下写」同文書)


平井村
ひらいむら

[現在地名]和歌山市平井

名草なくさ郡に属し、栄谷さかえだに村の東、市小路いちしようじ村の北に位置する。東は大谷おおたに村。村中を東西に淡島街道(旧南海道)が通じ、また葛城(和泉)山脈を平井峠で越えて和泉国に至る脇街道(飯盛街道)が村の西から北方へ延びる。孝子きようし峠を西にし峠というのに対し、この峠をひがし峠と称する。村内山間部に発するふる川が、貴志きし楠見くすみ諸村の用水ともなりつつむかい村で土入どうにゆう川に合流する(現在は流路が変わっている)

地名は永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)に「平井津」とみえ、当地が国衙領であったこととともに、港湾の地であって国衙の収納所の一でもあったことを示す。古代の紀ノ川は河口が大きく開いて入海をなし、当地域は河北の沿岸であったと推定される。中世にかけてしだいに南西方向に陸地が拡大するが、一〇―一一世紀頃には西隣の栄谷村が「堺の浦」とよばれ(→栄谷村、また先の収納米帳に「平井津」とみえることから、まだ沿岸の地であったことがうかがえる。中世には薗部そのべ庄内山路やまじ村に含まれたと思われる。


平井村
ひらいむら

[現在地名]山口市大字平井

椹野ふしの川左岸の沖積平野に立地し、対岸は湯田温泉ゆだおんせんを中心とした町場。東北にひめ山およびその支峰ニンジョウガ岳を背負う。西は矢原やばら村、東南は吉田よしだ村に接する。山口宰判に属した。

年号不詳であるが文永年間(一二六四―七五)と思われる沙弥覚阿申状(早稲田大学所蔵文書)によれば、覚阿と為貞なる者とが「周防国平井保公文職」をめぐって争っている。また、ニンジョウガ岳の麓にあった廃寺大恩だいおん寺の応永三二年(一四二五)の鐘銘に「防州吉敷郡平井保姫山大恩禅寺」とある。大内義弘の家臣に平井備前入道道助なる人物がおり、義弘が足利義満に対して反乱(応永の乱)を起こし、泉州さかい(現大阪府堺市)で敗死した時、弟弘茂を擁護して、周防長門の守護職を確保させる功があった。


平井村
ひらいむら

[現在地名]佐久市大字根岸ねぎし 平井

蓼科たてしな山東北麓末端の丘陵地に位置し、小丘陵を越した西側に枝郷五本木ごほんぎがある。西は五郎兵衛新田ごろべえしんでん(現北佐久郡浅科あさしな村)、北は相浜あいはま、東から南にかけては下県しもがた沓沢くつざわの村々である。

五本木の北方字石附いしづき付近は、養和元年(一一八一)横田河原合戦で木曾義仲の軍にあった石突次郎(参考源平盛衰記)の居所と伝えるが確証はない。村内は湧水が多く、その水を集めるどういり川沿いの地域の開発は古いとみられる。


平井村
ひらいむら

[現在地名]岡山市平井・門田本町かどたほんまち二丁目・平井一―七丁目

みなと村の南西にあり、ひがし山・西にし山の南麓、南流する旭川東岸に集落がある。「備前記」に加子浦とあるように、浦方の村であった。北部を西流する倉安くらやす川は、古くは当地で旭川に流入したといい、文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば倉安川の二之水門があった。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)宇治うじ郷に村名がみえ、寛永備前国絵図では高一千三一八石余、正保郷帳には日損中・水損小と注記がある。


平井村
ひらいむら

[現在地名]栃木市平井町

薗部そのべ村の南に位置し、太平おおひら山より永野ながの川右岸までの台地上に立地する。対岸は片柳かたやなぎ村。太平山の南東に太平山神社がある。同社北西の山陵(約三〇〇メートル)に太平山城跡があり、本丸とみられる郭は山陵中の富士浅間ふじせんげん山頂に確認できる。年未詳だが、野村高貞覚書写(新編武州古文書)に、野村氏が小山おやまに在陣していたところ、敵の結城氏が大平に出陣してきたとある。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)


平井村
ひらいむら

[現在地名]五所川原市 幾世森いくせもり上平井かみひらい町・下平井しもひらい町・中平井なかひらい町、柏原かしわばら町・てら町の各一部

岩木川下流右岸に位置し、東は川を境に漆川うるしかわ村、西は柏原村、南は喰川しよくかわ村、北は長橋ながはし村に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に喰川村支村平井村四七六・六五六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳は支村平井村の田方四〇町八反九歩、屋敷を除いた畑方二一町七反七畝二七歩、田畑屋敷合せて六三町五反八畝一七歩と記す。


平井村
ひらいむら

[現在地名]函南町平井

柏谷かしや村の北にあり、中世平井郷の遺称地。天明五年(一七八五)の差出帳(梶尾家文書)によれば慶長三年(一五九八)韮山にらやま(現韮山町)の城主内藤信成による検地が行われたと伝え、高七四六石余。反別は田方四六町四反余・畑方三二町八反余・屋敷一町六反余。慶長六年幕府領となり、寛永二年(一六二五)一部が三島代官井出藤左衛門領となる(吉田家文書)


平井村
ひらいむら

[現在地名]豊田市平井町・扶桑ふそう町・百々どうど

矢作川東岸に接して、現平戸橋ひらとばし町から市木いちぎ川にかけて南北に延びる地で、標高八〇メートル級の山が背後に迫っている。文久二年(一八六二)の村絵図によると、集落は、中央部と北部・南東部の三ヵ所に分れ、それぞれの集落には、八幡宮・天王・阿弥陀堂が中心に位置している。このほか庚申こうしん堂・阿弥陀堂・山ノ神も点在している。北には御林山がある。


平井村
ひらいむら

[現在地名]海南町平井

小川おがわ村の西に位置する。東部にうけヶ峰・鰻轟うなぎとどろき山、西部に吉野よしの丸・金瀬かなせ湯桶ゆとう丸などが連なり、谷川の水を集めて海部川が東流する。慶長二年(一五九七)の分限帳に「平井谷」とあり、高六七石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「平井」とみえ、また「おうひ」とあるのは地内の大比おおびであろう。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「平井村」と記される。


平井村
ひらいむら

[現在地名]丸子町大字平井

内村うちむら渓谷の中ほど、内村川と霊泉寺れいせんじ川の合流する辺り一帯の村。東は荻窪おぎくぼ村、西は高梨たかなし村、南は熊沢くまざわ峠を隔てて武石たけし(現武石村)、北は独鈷とつこ山を隔てて前山まえやま(現上田市)と境をなす。村内を東西に松本へ通ずる三才山越みさやまごえの古道(現国道二五四号)が通じ、東より宮沢みやざわ戸羽とば茂沢もざわ中村なかむら穴沢あなざわ等の集落が点在し、宮沢から分岐して南へ沢を上ると霊泉寺温泉がある。


平井村
ひらいむら

[現在地名]新旭町熊野本くまのもと

北は今市いまいち村、南は安養寺あんようじ村。応永二九年(一四二二)の木津庄引田帳(饗庭文書)に「平井光明寺湯田」とみえる。明応(一四九二―一五〇一)頃と思われる四月二四日の後藤高恒書状(朽木文書)によれば「中浜・横江浜・平井三ケ所」の河関は、もとのように六角氏の料所として据置かれている。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)の「新庄十郷」のうちに「井口 あんやう寺 平井」として高七八八石余とある。寛永石高帳に高三八五石余とあり、領主名の位置に「酒井現石川」とあるので、寛永一一年(一六三四)石川忠総の入封により膳所藩領となったと思われる。慶安高辻帳では田方三五二石余・畑方一一石余、永荒二一石余。


平井村
へいむら

[現在地名]鯖江市平井ひらい

日野川西岸に位置し、南は熊田くまだ村、西は下大倉しもおおくら吉田よしだ二町掛にちようがけの諸村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では丹生北郡中に「へい村」と記され、高一三八七・三五石。正保郷帳によると田方一千三二四石余・畠方六二石余。「越前国名蹟考」は枝村として毛毫岡を記す。初め福井藩領、正保二年(一六四五)吉江藩領、延宝二年(一六七四)福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、のち幕府領となる。宝暦一一年(一七六一)の越前国丹生郡平井村指出明細帳(「吉川郷土誌」所収)によれば、家数七七(うち高持四一・水呑三一・水呑百姓五)、人数三二三。


平井村
ひらいむら

[現在地名]植木町平井

加茂かも村の東、東を流れる合志こうし川を挟んで南東は宝田たからだ村、南は吉松よしまつ村に接する。元禄国絵図に「吉松村内平井村」とあり、もとは吉松村に含まれたが、享保(一七一六―三六)以前に分村した。宝暦一四年(一七六四)の地引合帳によると本高と新地高合計は三六三石余、本田畠それぞれ一二町七反余、ほかに約三町の新地・諸開がある。正院手永に属する。

明治七年(一八七四)宝田村と合併し平井村となる。同一一年頃の平井村の戸数一〇三・人数五〇三、馬六〇、村の東や西にある溜池と佐野さの溝を用水とし、米・麦・粟などのほか鎌三五〇枚・釘三〇貫目・畳二〇〇枚・川魚三〇貫目を産する。


平井村
ひらいむら

[現在地名]柏崎市平井

鯖石さばいし川中流東岸にある。東は丘陵で北条きたじよう村・小島こじま村、西は鯖石川を挟んで下田尻しもたじり村、北は上大かみおお新田、南は鯖石川を挟んで安田やすだ村。近世の支配ははじめ柏崎町と同じだが、宝永六年(一七〇九)春日かすが村に陣屋を置いた七千石の旗本安藤氏領となる。正保国絵図に高六七九石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では一千六二石六斗余と増大した。これは鯖石川の藤井ふじい堰によって東江ひがしえが開かれたことによる。


平井村
ひらいむら

[現在地名]伊自良村平井

伊自良川上流にあり、村の大部分は山地で、東は大桑おおが(現高富町)、南はかけ村。もと伊自良村のうちで、元禄郷帳に高四七七石余とあり、幕府領と旗本押田藤左衛門領の相給とある。明治大学刑事博物館本元禄郷帳では幕府領六一石余、押田領四二六石余。東光寺古文書(東光寺蔵)によれば、江戸時代初期の領主は日根野左京太夫であったという。日根野氏は寛永八年(一六三一)山県郡内の領地を失っているので、このとき幕府領となり、慶安三年(一六五〇)より大部分が押田領となった。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば幕府領は田二町三反余・畑一町六反余、家数七(うち寺一・百姓六)・人数二五。


平井村
ひらいむら

[現在地名]会津坂下町坂本さかもと

西から北にかけて只見ただみ川が大きく迂回しながら東流し、その右岸段丘下の低位面にある。沼田街道が通り、東は大沢おおさわ村、南は朝立あさだち村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二九石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高四五石余・新田高一石余、免五ツ五分二厘余、家数七、竈八、男一八・女一七、馬四で、小物成に綿役・糠藁・足前・山役・松葉サライがあり、ほかに役漆木八七五本余、役蝋一八貫三八〇匁、楮を売り、養蚕をし、薪を売っている。


平井村
ひらいむら

[現在地名]鹿島町平井

鹿島灘沿岸にあり、北は下津おりつ村、西は鉢形はちがた村。天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)長栖ながすなどとともに七一八・七八石とある。寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、寛永期頃には粟生あおう村に含まれ旗本領であったが、元禄期(一六八八―一七〇四)までには自立し、元禄郷帳に村高一四二石余と記される。元禄一三年水戸藩からの守山藩の分出に伴い村の一部は守山藩領になる。


平井村
ひらいむら

[現在地名]関宿町平井

東宝珠花ひがしほうしゆばな村の南に位置し、西を江戸川が流れる。地内には正応二年(一二八九)・嘉暦二年(一三二七)・康永四年(一三四五)・文明三年(一四七一)各年銘の武蔵型板碑がある。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二五六石余、旗本稲葉・土岐・原田・松野・進の五氏の相給。旧高旧領取調帳でもこの五氏の相給で知行高は土岐氏が五一石二斗四升八合、他の四氏はいずれも五一石九升。


平井村
ひらいむら

[現在地名]玖珠町太田おおた

角埋つのむれ山の北西、太田川沿いにあり、太田本村の北、もり村の西。中世豊後清原一族平井氏の本貫地で、古後こご郷の宗祀である天祖てんそ神社の社前に両面板碑・宝篋印塔・十二神像などがある。慶長六年(一六〇一)の森藩領知目録(佐伯藩政史料)に村名がみえ、高六九四石余。慶長豊後国絵図でも高は変わらない。


平井村
ひらいむら

[現在地名]堺市平井

ひがし村の南にある。大鳥郡に属する。中世は蜂田はちた(八田)庄に含まれた。応永九年(一四〇二)一〇月一五日の僧正賢房質田放文(金剛寺文書)に「和泉国八田庄内平井村」とある。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図では東村・小阪こさか村と合せて高一千二七二石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では一村で記され、六七四石余。


平井村
ひらいむら

[現在地名]草津市平井一―六丁目・平井町

渋川しぶかわ村の西に位置。葉山はやま川は条里地割に沿って大きく屈曲する。当地は栗太くりた郡の条里地割のうち六条九里と七条九里に比定され、五之坪・七ノ坪・六ノ坪・一ノ坪などの地名が残る。天正(一五七三―九二)の頃平井重綱が住したという(栗太志)。寛永石高帳では高四八三石余、幕府領・山城淀藩領・膳所藩領、旗本諏訪部・織田・渡辺領。慶安高辻帳では幕府領の田一〇五石余・畑二石余・永荒一六石余、淀藩領の田一七〇石余・畑二石余、膳所藩領の田四石余・畑二升・永荒七斗余、諏訪部領の田九〇石余・畑一石余、織田領の田七二石余・畑一石余、渡辺領の田一四石余・畑一斗余。


平井村
ひらいむら

[現在地名]朝地町下野しもの 平井

樋口ひのくち村の北、平井川北岸にある。正和元年(一三一二)一二月一六日の鎮西下知状(志賀文書)にみえる平井名の遺称地。慶長六年(一六〇一)の中川秀成知行方目録案(中川家文書)では平井郷とあり、高二千一九二石余。正保郷帳では平井村は田高一二〇石余・畑高七六石余、一万田いちまんだ郷に属し、柴山有と注記される。


平井村
ひらいむら

[現在地名]古座川町平井

添野川そいのがわ村の北に位置し、大塔おおとう(一一二二メートル)から高尾たかお(九四二メートル)に連なる峰を水源とする平井川が村内を南流し、添野川村のはなで南東に流れ、古座川と合流する。慶長検地高目録によると村高一二三石余、小物成二・七四三石。


平井村
ひらいむら

[現在地名]弥生町平井

門田かんた村の西、番匠ばんじよう川右岸に位置。郷帳類では切畑きりはた村に含まれたと思われる。文政六年(一八二三)の懐中記(弥生町教育委員会蔵)に切畑村組の一村として村名がみえ、田高二二六石余・反別一八町七反余、畑高二一石余・反別二町七反余、免三ツ七分、御立林三ヵ所がある。


平井村
ひらいむら

[現在地名]三木市平井

与呂木よろき村の東、美嚢みの川の中流左岸に位置し、細川ほそかわ谷の開口部に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は長屋ながや村と同じ。正保郷帳では田方八五石余・畑方三四石余。元禄郷帳では高一四七石余。嘉永五年(一八五二)成立の「三木郡志」では同高で、田数一〇町九反余、家数二〇・人数八九、牛一〇。


平井村
ひらいむら

[現在地名]和泉市平井町

納花のうけ村の南にある南北に狭長な村。池田いけだ谷の一村。当村および南の国分こくぶ村、東の黒石くろいし村を、中世には合せて宮里みやざととよび、宮里庄があった。宮里にはまた宮里城があって南北朝期に攻防戦が行われた。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に村名がみえるが、高は不明。


平井村
ひらいむら

[現在地名]小坂井町平井

小坂井村の西にある。洪積台地の舌端、旧海岸線上に立地。僧増基の「いほぬし」に「柏木のしたに幕引きてやどり侍りて」とある柏木かしわぎは、柏木の浜・柏木湊ともいわれ、村域内に比定されている。時代は下るが、天文一七年(一五四八)二月一五日の本多縫殿助忠俊宛今川義元宛行状(三川古文書)には「一所渡津平井村船役」とあり、当地が湊としての役割を有していたことが推測される。


平井村
ひらいむら

[現在地名]富津市前久保まえくぼ

前久保村の東に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高七三石。寛文四年(一六六四)の保科正景領知目録(寛文朱印留)に村名が記され、飯野藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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