平井郷(読み)ひらいごう

日本歴史地名大系 「平井郷」の解説

平井郷
ひらいごう

笛吹川左岸のかね川扇状地に位置し、現上平井・下平井は遺名といわれる。正元二年(一二六〇)三月一五日の源頼長譲状写(諸家文書纂)に平井郷とみえ、同郷屋敷名田のうち桜畠一所・名田一町を後家分として譲与しており、その譲与は翌弘長元年(一二六一)八月二九日鎌倉幕府によって承認されている(「鎌倉幕府下知状写」同書)。この文書には不明の点もあるが、内容を整理すると、頼長は相伝所帯した当郷の一部を妻源氏に譲っており、源氏は平井次郎妻と注記されるから、頼長は平井氏であったと解される。建治元年(一二七五)の京都六条八幡宮造営の際、平井次郎跡に三貫の経費が割振られているが(同年五月日「六条八幡新宮造営用途注文写」国立歴史民俗博物館蔵)、この次郎は頼長のことであろうか。平井氏は当郷を本拠にした甲斐源氏で、清光の子清隆を始祖とし(尊卑分脈)、治承四年(一一八〇)八月二三日の石橋山の合戦の際に平家方として参戦・討死した太郎義直(「山槐記」同年九月七日条)承久の乱に屈強の弓の名手として登場する太郎高行(承久軍物語)、「吾妻鏡」に弓始などの射手として散見する八郎清頼・又二郎有家らがいるが、系図類にはいずれもその名がみえない。


平井郷
ひらいごう

狩野かの川支流の来光らいこう川と柿沢かきさわ川の間に所在した郷。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月二四日条に「平井郷」とみえ、石橋山の合戦に敗れた北条宗時(時政の子)土肥どい(現神奈川県湯河原町)から当郷を経て早河(来光川か)付近で伊東祐親の兵小平井こひらい名主紀六久重に射取られている。応永五年(一三九八)六月二五日の密厳院領関東知行地注文案(醍醐寺文書)に平井薬師堂が走湯山密厳みつごん(現熱海市)領とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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