下府村(読み)しもこうむら

日本歴史地名大系 「下府村」の解説

下府村
しもこうむら

[現在地名]浜田市下府町

下府川の最下流域で日本海に面し、東は上府村、西・南は長沢ながさわ村、北は国分こくぶ村。当地および上府町一帯は古代の石見国府が置かれたとみられ、中世石見府中いわみふちゆうとして推移した。山陰道が通る。天文二四年(一五五五)一〇月四日、岡本兼貞が東方豊後守に府中において宛行った田地の所在地として「下苻之中あせひのしり」とみえる(「岡本兼貞充行状写」岡本家文書)。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高七八四石余、年貢高は田方三三二石余・畑方九二石余。


下府村
しものふむら

[現在地名]新宮町下府・桜山手さくらやまて一―三丁目・みどりはま一丁目・湊坂みなとざか一―六丁目

立花たちばな山の北西に位置し、北は新宮浦北東は上府村。天文二年(一五三三)八月三日に「上下府捌拾町御代官職」が恩賞として河津隆業に宛行われている(「大内氏奉行人連署奉書」河津伝記)。同四年二月四日大内義隆は河津隆業に対し、「香椎郷内上府四拾町」の下地とともに「同所下府四拾町」の代官職を安堵した(「大内義隆袖判下文」同書)。河津氏は糟屋郡本拠を置く筑前国の国人。隆業は河津興光の子で、親子で鞍手くらて郡の郡代を勤めている。なお糟屋郡代と推定される河津弘業は隆業の祖父にあたる。小早川時代の指出前之帳では下府村の田四三町六反余(分米五八九石余)・畠三町三反余(分大豆三二石余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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