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浜田藩 はまだはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

浜田藩
はまだはん

江戸時代,石見国 (島根県) 浜田地方を領有した藩。元和5 (1619) 年古田重治が5万 7000石で立藩したのに始り,松平 (松井) 氏6万石,本多氏5万石,松平 (松井) 氏5万 400石を経て天保7 (1836) 年以降松平 (越智) 氏6万 1000石となったが,慶応3 (1867) 年松平氏は毛利氏に追われて美作 (岡山県) 鶴田へ転出したため廃藩。

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百科事典マイペディアの解説

浜田藩【はまだはん】

石見(いわみ)国浜田に藩庁をおいた。藩主は外様(とざま)の古田氏,譜代(ふだい)の松平(松井)氏・本多氏,家門(かもん)の松平(越智)氏と変遷。領知高は約5万石〜6万1000石。
→関連項目石見国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

はまだはん【浜田藩】

江戸時代石見(いわみ)国那賀(なか)郡浜田(現、島根県浜田市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩、親藩(しんぱん)。藩校は長善館、道学館。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏が減転封(げんてんぽう)されたあと、徳川直轄地と坂崎氏の領地となっていたが、19年(元和(げんな)5)、伊勢(いせ)国松坂藩から古田重治(しげはる)が5万4000石余で入封(にゅうほう)、立藩した。しかし、2代重恒(しげつね)が御家騒動(古田騒動)を起こして改易(かいえき)となり、その後は譜代の松平(松井)氏、本多氏が入封。1716年(享保(きょうほう)1)に農民蜂起があり、24年には歌舞伎にも取り上げられた内紛「鏡山(かがみやま)事件」が起きた。69年(明和(めいわ)6)に再び入封した松平(松井)氏も密貿易の竹島事件で1836年(天保(てんぽう)7)に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))。代わって上野(こうずけ)国館林(たてばやし)藩から家門(かもん)の松平(越智(おち))斉厚(なりあつ)が6万1000石で入封、以後明治維新まで松平氏4代が続いた。66年(慶応2)の第2次長州征伐の際には長州藩の攻撃を受け、4代藩主の武聡(たけあきら)は浜田城を放棄して逃れ、長州藩に占領された。69年(明治2)の版籍奉還により旧藩領は天領と隠岐(おき)を合わせて大森県となり、71年の廃藩置県で浜田県となったのち、76年島根県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

はまだはん【浜田藩】

石見国那賀郡浜田(現,島根県浜田市)に藩庁をおいた譜代中藩。ただし初期は外様,末期は親藩。1619年(元和5)古田重治が伊勢国松坂より浜田へ封じられ,那賀,邑智,美濃3郡で5万0400余石の浜田藩が成立した。藩領は東部はほぼ江川をもって石見銀山領と境するが,江川舟運の要津や銀山の所在地は江川を越えて銀山領に編入された。西部と南部は津和野藩と接するが,領域内に津和野藩の飛地があるなど不自然複雑な領域を形成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

浜田藩
はまだはん

石見(いわみ)国那賀(なか)郡浜田(島根県浜田市)に置かれた藩。外様(とざま)大名に始まり、譜代(ふだい)藩を経て幕末には親藩が配された領主交替の激しい中規模の藩である。1600年(慶長5)毛利(もうり)氏が防長2か国に減封されて以来、この地は徳川直轄地であったが、19年(元和5)外様大名の伊勢(いせ)松坂藩主古田重治(しげはる)(5万5000石)が石見5万石・丹波(たんば)5000石に所替(ところがえ)となり浜田へ入部、浜田城を築き城下町を建設した。甥(おい)重恒(しげつね)が後を継いだが嗣子(しし)なく断絶。1649年(慶安2)譜代大名の播磨宍粟(はりましそう)藩主松平(松井)康映(やすてる)(5万4000石余)が浜田へ転封、1759年(宝暦9)には下総(しもうさ)古河(こが)藩主本多忠敞(ほんだただひさ)(5万石)が浜田へ転封、69年(明和6)には前藩主松平(松井)康福(やすよし)がふたたび浜田藩主となり、85年(天明5)には1万石余が加増されて6万1000石、1836年(天保7)今度は家門(かもん)である上野(こうずけ)館林(たてばやし)藩主松平斉厚(なりあつ)(武厚)が浜田藩へ配された。1866年(慶応2)長州軍の攻撃を受けると、藩主松平武聡(たけあきら)は城を放棄、浜田藩の飛地(とびち)領である美作(みまさか)国鶴田(たづた)へ逃れ、浜田は長州軍に占領されて廃藩、69年(明治2)に旧藩領は隣接の幕府領および隠岐(おき)とあわせて大森県(のち浜田県)となった。
 1716年(享保1)には農民が蜂起(ほうき)した「春定用捨(はるさだめようしゃ)訴願騒動」、1724年には奥女中から起こった内紛「鏡山(かがみやま)事件」(歌舞伎(かぶき)『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』に脚色)、1762年(宝暦12)より67年(明和4)にかけては浄土真宗対他宗の「浜田宗論」、1836年(天保7)には密貿易「会津八右衛門(はちえもん)事件」など、とかく事件の多い藩であったが、石見半紙の開発をはじめ鉄、蝋(ろう)、瓦(かわら)、海産物など殖産興業に力を入れ、外の浦港(浜田港)は西廻(まわり)航路の寄港地としてにぎわった。[松尾 寿]
『『浜田市誌』全2巻(1973・浜田市)』

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