朝日日本歴史人物事典 「下村庄助」の解説
下村庄助
17~18世紀のころの京都の「かわた」頭といわれるが出自は不詳。武士身分といわれる。勝助,勝介とも書く。伝承によれば慶長8(1603)~元和5(1619)年初代彦惣,2代目庄助は板倉重宗に仕え,大坂陣での皮革需要の確保に当たった。そのさい斃牛馬処理権を持つ「かわた」を山城・摂津・江州で掌握・支配したとも,また扶持米109石余からみて庭者統轄の役目も持っていたと推察されている。3代目六文病死(1708)で後継者なく断絶,手代が相続を願うも許されなかった。役目であった御所,二条城の掃除役は名誉職として一般町人も従事,支配下にあった「役人村=えた村」もその後,頭が独自に支配した。なお居住地も部落外の西洞院丸太町上ルにあった。<参考文献>辻ミチ子「京都における被差別部落成立について」(部落解放研究所『近世部落の史的研究』上)
(秋定嘉和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報