下柴村(読み)しもしばむら

日本歴史地名大系 「下柴村」の解説

下柴村
しもしばむら

[現在地名]喜多方市関柴町下柴せきしばまちしもしば

平林ひらばやし村の東、会津盆地の北東縁の山際に位置する。東は下吉しもよし(現北塩原村)北西関柴村。小田付組に属し、小松こまつ石堂いしどう大楚々木おおそそぎ小楚々木こそそぎの端村が山中にあった。村の西方姥堂うばどう川が流れ、昔当村の水上に上柴という地があったのが村名の由来という(寛文五年「小田付組土地帳」)。天正一二年(一五八四)九月一七日蘆名氏の重臣富田能登守は熱塩あつしお(現熱塩加納村)示現じげん寺の子院嘯月院へ「那摩(耶麻)之郡下柴之内」高松寺分七二〇刈・安楽あんらく寺分五〇〇刈・白山免田六五〇刈・天神免田一三〇刈、合せて二千刈の地(年貢八駄)を寄進している(「富田能登守寄進状」示現寺文書)。集落北方の大館山・小館山には館跡があり(新編会津風土記)、また東方柴原しばはらには天正年中伊達政宗と会津勢が合戦した折、戦死者を埋葬したという大小一一の塚があった(小田付組土地帳)


下柴村
しもしばむら

[現在地名]箕郷町下芝しもしば

上柴村の南、しら川東岸にある。早瀬はやせ川・谷津やつ川が南流し、地味肥え、上田屋かみたやひがしはらなどの集落がある。東部一帯は青木あおきとよばれる。平城天皇の皇子阿保親王が上野国巡視の折当地で休憩し、記念にその地を阿保木と命名したことによると伝える。慶長一八年(一六一三)の年貢割付状(青柳文書)があり、それ以前から一村であった。寛文郷帳では田方三五五石余・畑方二一〇石余、三河中島藩領。江戸後期の御改革組合村高帳では高崎藩領。慶応四年(一八六八)の村明細帳(佐藤文書)によると、田方二九町六反余・畑方二五町九反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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