高崎城下(読み)たかさきじようか

日本歴史地名大系 「高崎城下」の解説

高崎城下
たかさきじようか

関東平野の北端、からす川と碓氷うすい川の合流点左岸の、榛名はるな山麓台地上に位置する高崎城を中心に発展した城下町。高崎城の東側を中心に南側と北側に広がる。

〔和田氏時代〕

室町時代、当地を含む一帯は赤坂あかさか庄とよばれていたが、正長元年(一四二八)和田義信が烏川左岸崖上に和田わだ城を築いてから当地は和田宿とよばれるようになったと伝える。和田宿には金井かない馬上ばじようなどの宿場が形成されたという。家臣の多くは支城である下之しもの城をはじめ、矢中やなか中居なかい飯塚いいづか並榎なみえなどに館または支城を構えて周辺に居住していたと伝える。和田城の東を鎌倉街道が通っており、街道の位置から想定すると城下の規模は大きいものではなかった。なお鎌倉街道は現若松わかまつ町から馬上宿・金井宿を通り、現高松たかまつ町辺りで烏川河原へ出たと考えられる。太田道灌状(島原市教育委員会蔵)によると、文明九年(一四七七)一二月二三日古河公方足利成氏が、広馬場ひろばば(現北群馬郡榛東村)出陣の途中上野守護上杉方の和田に軍を寄せている。永禄四年(一五六一)上杉謙信の小田原攻撃後、和田業繁は武田信玄に従い、そのため和田は上杉氏の攻撃を度々受けた。宿としても機能しており、元亀元年(一五七〇)には梶山与三右衛門尉が和田問屋の業務を従来どおり認められている(同年八月二六日「武田家朱印状」梶山文書)倉賀野くらがの宿の伝馬継も北西は和田までであった(天正一〇年閏一二月二六日「北条家伝馬掟書」堀口文書)。なお、文亀四年(一五〇四)三月一日の年紀をもつ両界口伝抄奥書(宝生院蔵)に和田常楽じようらく寺がみえる。

和田氏の城下町は高崎城下の形成により姿を消し、中世末期に成立したと伝えるあら町の名称を残すのみである。以下近世の城下町については元禄一六年(一七〇三)と天保二年(一八三一)の往還絵図、安政三年(一八五六)城下図などの絵図類や、地誌の「高崎寿奈子」「高崎志」「更正高崎旧事記」、「高崎市史」などによって記述を進める。

〔城下町の形成と発展〕

天正一八年(一五九〇)一二万石をもって箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)に封じられた井伊直政は、幕命により中山道の要衝の地和田宿に築城、慶長三年(一五九八)移転して地名を高崎と改め、以後高崎町・高崎宿・高崎駅と称された。築城の際中山道を整備して町割を行い、城郭を中心に三ノ丸堀の外に武家屋敷を配置し、武家地と区別して町屋を置き、その外側に遠堀(遠構)の堀と土居を構築し郭内とした。中山道は南東端から城下に入り、ほぼ北に延びて北端近くで左折、三国街道を分岐して西北端で北西に向かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高崎城下の言及

【高崎[市]】より

…黄檗(おうばく)宗の少林山達磨(だるま)寺は1月6,7日に開かれるだるま市で知られ,境内にはB.タウトが住んだ洗心亭がある。【有末 武夫】
[高崎城下]
 上野国の城下町,中山道の宿駅。古くは赤坂の庄といわれ,鎌倉時代以後は和田氏の居城の地であった。…

※「高崎城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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