柴村(読み)しばむら

日本歴史地名大系 「柴村」の解説

柴村
しばむら

[現在地名]浅羽町浅羽

小笠おがさ山丘陵の西、諸井もろい台地上に位置する。西は弥太井やたい村、南は松下まつした村。

〔中世〕

養和元年(一一八一)浅羽庄司宗信が遠江国守護安田義定との確執により、いったん没収された所領のうち庄内の柴村および田所職を返還された(「吾妻鏡」同年四月三〇日条)。当村は浅羽氏やのちの柴氏の本拠となっており、浅羽庄内では中心的な位置を占める村であった。応永六年(一三九九)には当村を含む柴美濃入道の所領が没収されて幕府の料所となり、足利義満の側室寧福院殿に与えられた(同年九月一七日「足利義満御内書」・九月一八日「管領畠山基国奉書」宝鏡寺文書)。また同三〇年には足利義持から寧福院殿の娘今御所へと伝領された(同年四月一三日「足利義持御内書」・一〇月二九日「管領畠山満家奉書」同文書)。さらに柴村を含む浅羽庄は、その後足利義政日野富子との間に出生した南御所へと伝領されている(文明一四年八月二三日「柴豊宗等連署請文」同文書)

天文八年(一五三九)に三浦弥次郎の所領となり(同年八月一日「今川義元判物写」・一〇月一日「今川義元朱印状写」三浦文書)、翌年には今川氏による検地を受けて隠田などの不法が厳しく禁じられている(同年八月一日「今川義元朱印状写」同文書)。戦国期の浅羽地域は新田開発が盛んであり、永禄三年(一五六〇)には当村の新田開発は二三〇貫文に及ぶとされている(同年七月二〇日「今川氏真判物」海老江文書)


柴村
しばむら

[現在地名]国分寺町柴・駅東えきひがし一―七丁目

姿すがた川東岸台地上にあり、東は河内かわち仁良川にらがわ(現南河内町)、西は小金井こがねい宿、南は荒井あらい村・出井いでい村・鉢形はちがた(現小山市)、北は河内郡薬師寺やくしじ(現南河内町)。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に小山領上郷分として「しば」とある。小山領より伊勢内宮佐八掃部大夫へ届けられた伊勢役銭のうち五〇〇文を負担している。天正一三年(一五八五)一一月一七日の小山秀綱黒印状写(晃程文書)によると、秀綱から「柴」の百姓に野銭一貫三〇〇文が預けられ、同一六年一〇月二二日には秀綱が渡辺内膳亮に野銭一貫五〇〇文の課税を行っている(「小山秀綱黒印状写」同文書)


柴村
しばむら

[現在地名]金沢区柴町・西柴にししば長浜ながはま

北は長浜を経て富岡とみおか村、東南は海、南西は六浦寺前むつらてらのまえ村、西方の山丘で谷津やつ村に接する。小柴こしば村とも記す。嘉永五年(一八五二)二月の野島渡海船設ニ付聞書(県史九)に「小柴村ハ当時小ノ字省キ只○柴村ト改候由、此村ト富岡ハ往古此村先ニ長浜ト唱候所有之、人家モ夥敷有之候処、或時大津波ニテ人家払流レ候、畑ヨリ長浜人家右小柴・富岡両村並中里村エ引別レ、夫ヨリ両村人家追々出来候由、夫迄ハ小柴抔ハ人家ハ無之程ノ様子彼辺ノ古老ノ咄ノ由」と伝える。

元禄一〇年(一六九七)旗本荒川領、天保一四年(一八四三)川越藩預所となり明治に至る。


柴村
しばむら

[現在地名]和田町柴

仁我浦にがうら村の北東に位置し、海に面する。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高三〇八石余、うち田方二〇九石余。里見氏直轄領。同一一年・一五年の里見家分限帳では給人領。元和六年(一六二〇)東条藩西郷氏領となるが、この時の高は二五二石余(同年東条藩領知目録)正保郷帳には芝村とあり、田高一六一石余・畑高九一石余。


柴村
しばむら

[現在地名]伊奈町小室こむろ 柴中しばなか

宿しゆく村の西に位置し、綾瀬川右岸の大宮台地上に立地する。正保年間(一六四四―四八)中荻なかおぎ村を分村したと伝える(郡村誌)。江戸時代の領主の変遷は小貝戸こがいと村に同じ。田園簿では田一八石余・畑三九石余。検地は明暦二年(一六五六)の実施を伝える(風土記稿)。中山道上尾宿の助郷村で、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると勤高五七石余・役家数二。また元禄七年(一六九四)には同宿助郷が定置され、当村も定助郷村となる(「上尾宿并上郷上尾村助郷村高」同文書)


柴村
しばむら

[現在地名]長野市松代町柴

東寺尾村の北で埴科はにしな郡の最北端の村。北は千曲川を挟んで更級さらしな小島田おしまだ(現長野市小島田)に面し、東から金井かない山が村へ突き出る。

初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で「柴村 高百九拾六石四升七合」とある。明暦三年(一六五七)真田信之は九二歳の高齢に達し、幕府から隠居を許可され、松代の北約四キロの柴村に隠居し剃髪して一当斎を号した。信之に従って移った士分は五一人、御茶道二人、役者七人、鉄砲之者一五人、飼刺三人、坊主四人、並足軽一二三人、夫番一〇人、その他一五三人であった(松代町史)


柴村
しばむら

[現在地名]滑川市柴

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、南は安田やすだ村・大坪新おおつぼしん村。慶長八年(一六〇三)二月七日の前田利長知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)によると、柴村の五八石余が改田小左衛門尉に宛行われている。寛永二年(一六二五)の津田右京・沢田少二郎宛の知行所目録(中川家文書)には柴村の四三石余がみえる。正保郷帳では高二五三石余、田方一六町六反余・畑方二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二三九石、免四ツ五歩、小物成は山役一七匁(三箇国高物成帳)


柴村
しばむら

[現在地名]西方村もと

現西方村東部平坦地のほぼ中央に位置。南は深見内ふかみうち村、東は金崎かなさき村。西方郷一三ヵ村の一で、中世の西方城城付領六ヵ村に属したという(西方記録)。中世以来の栃木と日光を結ぶ街道沿いにあり、慶長年間(一五九六―一六一五)小倉おぐら川沿いに金崎村を分立させた。慶安郷帳に村名がみえ、田二〇〇石余・畑一七五石余、武蔵岩槻藩領。のち下総古河藩領を経て、元禄一一年(一六九八)旗本板倉領となり、以後幕末まで同じ。


柴村
しばむら

[現在地名]山東町柴

柴川の源流域に位置し、一品いつぽう村の南東にある。丹波国境の遠坂とおざか峠に近い。山陰道筋で、「但州湯嶋道中独案内」では遠坂峠を越えて柴村に至っている。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三八四石余とあり、郡境の遠坂峠を越えると丹波国遠坂(現青垣町)に出て貝原かいばら(現柏原町)に至る本道と記される。


柴村
しばむら

[現在地名]江南町柴・中央ちゆうおう

江南台地中央部に位置し、東は大里郡成沢なりさわ村、西は本田ほんだ(現川本町)、北は千代せんだい村。台地を刻む浸食谷の谷頭部の溜池が用水源として利用されている。文亀元年(一五〇一)以前とみられる一二月九日の長尾忠景書状(雲頂庵文書)に「柴郷事、右衛門尉中間彦大郎男鉢形へ帰候間」とあり、柴郷は当地付近に比定される。


柴村
しばむら

[現在地名]長浜町柴

ひじ川河口から六キロ上流の左岸にあり、川沿いの狭長な低地と標高五〇―二〇〇メートルの丘陵地とからなる山村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多郡の項に「柴村 日損所、水損所、茅山有、川有」とある。村高は四一九石で、うち田方九八石七斗八升七合、畠方三二〇石二斗一升三合、現長浜町内の大洲藩領では石高最大の村。また山畑が多いことは注目される。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には、土産は「大豆、菜種子多し、蜜柑枝村ニ有之、柚・麦・粟・稗、米少し」、土地は「場所により善悪有、先よろしき所多し、民家難渋者少し」とあり、豊かな村況がうかがわれる。


柴村
しばむら

[現在地名]下妻市柴

黒駒くろこま村の南に続く台地上にある小村元禄郷帳の村高は九七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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