下田町(読み)しもだまち

日本歴史地名大系 「下田町」の解説

下田町
しもだまち

[現在地名]下田市一丁目いつちようめ二丁目にちようめ三丁目さんちようめ四丁目よんちようめ五丁目ごちようめ六丁目ろくちようめたけはま・下田

伊豆半島の南部、稲生沢いのうざわ川が下田湊に注ぐ河口付近に形成された町。古くは下田村と称した。中世は下田郷に含まれた。慶安二年(一六四九、一説には慶長年間)岡方おかがた村を分村(下田年中行事)。明治一〇年(一八七七)同村を合併。

天正一八年(一五九〇)関東を領有した徳川家康は下田五千石を戸田忠次に与えた(寛政重修諸家譜)。慶長六年(一六〇一)忠次の子尊次が三河国田原たはら(現愛知県田原町)へ転封となり、徳川氏直轄領となる(同書)。その後は幕府領の時期が長く、うち元和二年(一六一六)から元禄四年(一六九一)まで下田番所支配、正徳二年(一七一二)から享保五年(一七二〇)までと嘉永七年(一八五四)から安政六年(一八五九)まで下田奉行所支配であった(「韮山町史」、安政二年「中村諸歎願書留」もりおの文書)元禄郷帳には下田村とあり、高五九六石余。享保中頃の年貢割付状(伊豆下田)でも同高、うち屋敷地子高二七二石余・取米一三八石余、番所高三〇〇石・取米一〇五石(金納)、釣十分一高一四石・取米八石余(金納)、ほかに浮役永三四貫文。天保郷帳では下田町とあり、高二八〇石余。この高の減少は享保五年に下田奉行所が相模国浦賀うらが(現神奈川県横須賀市)へ移転し、下田町の収入が減少したことによる。寛政四年(一七九二)の家数七九五・人数三千一一〇、廻船二四、船主二一軒・水主稼一二〇軒、漁船三〇・小糶船一・伝馬船四〇(「小田原より豆州海辺通村領控帳」奥田家文書)。天保一五年(一八四四)の村々様子大概書(江川文庫蔵)によると家数八七七・人数四千一五、御林四ヵ所。

戸田忠次は城を築城せず海善かいぜん寺に居を構えたといわれ、この頃から下田の町並が形成されていったと思われる。海善寺から海に至る小路を殿との小路、戸田氏の家来が住んでいたのが長屋ながや町で、同町・紺屋こんや町・連尺れんじやく(連雀)町・町店まちだな(古くは町棚町)などが町の中心であったという。


下田町
しもだまち

面積:四九・三八平方キロ

上北郡の東南に位置する。三本木さんぼんぎ原の東側にあたり、北は三沢市、東は百石ももいし町、南は八戸はちのへ市および三戸さんのへ五戸ごのへ町、西は六戸ろくのへ町に接する。大部分は平坦な火山灰台地であるが、南部は東流する奥入瀬おいらせ川によってできた低地となる。低地は水田化され、町内のほとんどの集落はここに集中する。台地は三沢市から鶉久保うずらくぼ木ノ下きのした木内内きないないに至る道を結ぶ線を境にして、東は三沢台地といわれる中位段丘で、西側は北上きたかみ台地といわれる高位段丘である。台地を開析する槻木つきのき沢には緩やかな多くの支谷があるが、流路の両側にほとんど浸食崖が発達していない。


下田町
しもたまち

[現在地名]長浜市朝日町あさひちよう

長浜町の南東端にあり、西は十一じゆういち町で、北は中田町に続く南北通りの両側町。瀬田せた村領年貢地。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数二三、男四八・女五六で、町代・横目が置かれ、塩屋二・油屋・京飛脚がおり、貸家一がある。享保一五年(一七三〇)の長浜人数留(今村文書)によれば家数二四、男五九・女五八。文化六年(一八〇九)の竈数二三(「町役掛諸用要留」吉川文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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