日本歴史地名大系 「下田市」の解説 下田市しもだし 面積:一〇四・六七平方キロ伊豆半島南東部に位置し、婆娑羅(ばさら)山・青(あお)山・石(いし)山などの小高い山を境に北は賀茂(かも)郡河津(かわづ)町、西は同郡松崎(まつざき)町・南伊豆町に接し、東・南側は相模灘が広がる。南流する稲梓(いなずさ)川と東流する稲生沢(いのうざわ)川がほぼ中央で合流し、さらに南流して下田港に注ぐ。これらの川やそれに注ぐ小河川によって形成された沖積地に、集落と耕地が開けるとともに、稲生沢川河口には下田港と市街地が形成される。一方、白砂の広がる海岸地帯は富士箱根伊豆国立公園に指定される。〔原始・古代〕現在、縄文時代の遺跡は三三ヵ所、弥生時代の遺跡は六ヵ所が確認され、海岸近くや内陸の稲生沢川沿いの丘陵上に位置している。古代遺跡では三穂(みほ)ヶ崎(さき)・白浜(しらはま)神社・洗田(せんだ)・恵比須(えびす)・遠国(おんごく)島などにみられる祭祀遺跡やそれに近接する金山(かなやま)・長田(ながた)タタラドの製鉄遺跡が著名である。朱鳥元年(六八六)天武天皇の没後起こった大津皇子の謀反事件に関連して、帳内である礪杵道作(ときのみつくり)は箕作(みつくり)に流され、その霊は箕作八幡宮に祀られたと伝えられる。「和名抄」によれば伊豆国賀茂郡には五郷が記され、うち市域の大半は大社(おおやしろ)郷に、南部の田牛(とうじ)(一説には田牛・吉佐美・大賀茂)のみ月間(つくま)郷に属したとみられる。平城宮跡出土木簡に「加毛郡柞原郷阿□」(「平城宮木簡」二―二二六五)・「賀茂郡稲梓郷稲梓里」(「平城宮木簡概報」二二―二八頁)とあり、市内の須原(すはら)や明治二二年(一八八九)成立の稲梓村を遺称地とする見解もある。古代に伊豆の島々は相次いで噴火を繰返した。これを神の仕業と考えた当時の人々は、社を造って祀った。その主神が三島の神であり、伊豆三宅(みやけ)島に祀られていたものが、のちに后の伊古奈比命とともに白浜神社に祀られ、さらに一一世紀頃に三島に勧請されたといわれている。〔中世〕源頼朝が伊豆に流されたためか、市内には源氏にまつわる伝説が多い。源頼政は山城宇治から吉佐美(きさみ)に逃れたといわれ、相玉(あいたま)には愛妾菖蒲前の墓と伝承されるものがある。治承四年(一一八〇)八月一九日、頼朝は蒲屋(かばや)御厨(現下田市田牛から南伊豆町手石にかけての一帯)に山木知親の支配を停止する下文を出している(吾妻鏡)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下田市」の意味・わかりやすい解説 下田〔市〕しもだ 静岡県東部,伊豆半島南東部,相模灘に面する市。1971年市制。中心市街地の下田は,江戸時代は江戸と大坂とを結ぶ海上交通の重要な寄港地として繁栄し,幕府の直轄地であった。嘉永7(1854)年,日米和親条約によって開港。2年後アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスが仮領事館を玉泉寺に設置,日米外交の基礎をつくった。1961年伊豆急行の開通により観光地として脚光を浴びる。海岸線が長く,サザエ,イセエビなどの沿岸漁業や下田港を中心とした近海漁業が行なわれる。柑橘類や花卉栽培も盛ん。了仙寺,玉泉寺,神子元島灯台(いずれも国の史跡),唐人お吉の墓,蓮台寺などの旧跡,観光地も多い。市街地の北に蓮台寺温泉,市街地内に下田温泉がある。八幡神社のイスノキ,白浜神社(伊古奈比咩命神社〈いこなひめのみことじんじゃ〉)のアオギリ自生地はともに国の天然記念物。下田港東部の須崎半島には御用邸がある。市域の一部は富士箱根伊豆国立公園に属する。海岸部を国道135号線が通り,414号線が分岐する。面積 104.38km2。人口 2万183(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by