日本歴史地名大系 「下田湊」の解説 下田湊しもだみなと 静岡県:下田市下田町下田湊[現在地名]下田市一丁目・二丁目・三丁目・五丁目など稲生沢(いのうざわ)川河口に開け、南に下田湾を望む。湊内には毘沙子(びしやご)島(ミサゴ島)・犬走(いぬばしり)島・赤根(あかね)島などが浮ぶ。赤根島西方の大浦(おおうら)の入り江も下田湊に含まれていた。古くから暗礁が多く船の難所である伊豆半島近海にあって、鳥羽(とば)(現三重県鳥羽市)から江戸への航路は風待湊が少ないため船舶の出入りが多かった。江戸幕府は元和二年(一六一六)に須崎(すざき)に遠見番所を置き、同九年には下田町の大浦に番所を移し、江戸往来の船の積荷検査と海難処理を勤めさせた。風待湊に加えて海の関所としての役割をもち、一時は俗に「出船・入船三千艘」といわれたくらいに賑わった。「下田年中行事」に「今の大工町より須崎町川辺の地に至りては、蘆荻はびこり海面より波打或は潮よせ断岸日々に換り」と記されるように、防波堤がなかったため大波が押寄せる危険があった。二代御番の今村正長は私財をなげうって稲生沢川河口の武(たけ)が浜(はま)波除建設に着手し、正保二年(一六四五)に完成した。番所のもとで船改や海難救助の雑務を受持ったのが今村家の家臣に系譜を引くと伝えられる廻船問屋で、江戸中期には六三人となり、享保五年(一七二〇)に番所(奉行所)が相模国浦賀(うらが)(現神奈川県横須賀市)へ移ってからも下田を本拠として番所の事務を続けた(下田年中行事)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報