長浜町(読み)ながはままち

日本歴史地名大系 「長浜町」の解説

長浜町
ながはままち

羽柴秀吉により天正二年(一五七四)から建設された長浜城下(当初は今浜城下)を基本とし、慶長一一年(一六〇六)以降長浜藩主内藤氏により改修が加えられた。元和元年(一六一五)長浜藩の廃藩により城下町としての機能は失うが、彦根藩三湊の一つとして、北国街道宿場町として、また周辺各村の経済的中心として近世を通じて機能した。秀吉がつくり、最初にもった城下町としての由緒を誇った。秀吉のつくった当初の城下町は四九町であったが、その後片原かたはら町が北中南の三つに分れ、旧城中の中鞴なかたたら町が町域に組入れられて五二町となり、以後町数に変化はない。このうち三六町が地子免許の町で、一六町は年貢地とされた。秀吉が城下町をつくる以前には、今浜いまはま村・西浜にしはま村・横浜よこはま村・瀬田せた村・三津屋みつや村などが存在したと思われる。応永一七年(一四一〇)二月の神照寺御堂上棟式次第(神照寺文書)の曳馬三二匹中に今浜三郎左衛門の名がある。永享七年(一四三五)の「長浜八幡宮勧進猿楽記録」に「今浜村三間道秀道林」「今浜之時講衆」とあり、「横浜人々」ともみえる。永享年間の神照寺寺田記録(神照寺文書)に「ヨコハマ藤内」「ヨコハマ刑部」が作人名のうちにあげられる。横浜の地名は、城下建設後は町名として引継がれた。

秀吉の時代、また内藤氏の城下町の姿は不明であるため、彦根藩領下の在町となってからの町の姿を紹介する。旧城の東と北には防備のため二重の外堀が配され、その東を南北に北国街道が通る。城の大手門から北国街道に直交する大手おおて町はそのまま東へ延びて、鉤形に曲がって町の鎮守である長浜八幡宮へ突きあたる。この南北と東西の道を基軸として、ほぼこれに並行する三本の南北道と七本の東西道で町が構成される。町の外れには寺院が配されている。よね川下流の上船かみふな町・下船町船片原ふなかたはら町・小船こぶな町が湊の機能を負担し、宿役は五二町全体で請負っている。東西通りの西本にしほん町・東本町や大手町周辺が商業の中心であったという。町名は秀吉によって移転させられる前の居所を示す郡上ぐじよう町・伊部いべ町・大谷市場おおたにいちば町など、町内に集住した職業を示す鍛冶屋かじや町・呉服ごふく町・魚屋うおや町・紺屋こんや町・金屋かなや町・船町・中鞴町など、寺社の存在を示す知善院ちぜんいん町・みや町・御堂前みどうまえ町・稲荷いなり町などがある。

天正二年と思われる六月六日の羽柴秀吉下知書状(川合文書)によれば、平方ひらかた村の名主百姓中に対し、「今はまふしんニ、すきくわ、并もツこ持」ちで人夫に出るよう命じており、周辺農村に城や城下建設のため動員がかけられている。


長浜町
ながはまちよう

[現在地名]長浜町長浜

ひじ川河口の北岸に位置し、大洲おおず城下町の外港として准町の取扱を受けた。現長浜町の中心地。

享和元年(一八〇一)の「大洲旧記」に「何れの村共なく古へより離有し也。郷分郡分にも見えず」と記されている。もっとも元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」長浜の条に、しろおきという所に古城跡があったと伝え、大津賀信濃守の居城であったともいうが、明らかではない。「大洲旧記」に「元和の頃迄は御屋敷もなし、洲崎表ニ差出、あし多くしげり、大守御船待の節は、兎抔狩せのよし」という状態であった。


長浜町
ながはまちよう

面積:七四・三七平方キロ

喜多郡の西部。ひじ川河口の両岸を占め、伊予灘に面する(→肱川。全面積の七〇パーセント以上が二〇〇メートル以上の高地で占められ、肱川北岸の標高九七一メートルの壺神つぼがみ山、南岸の標高八一二メートルの出石いずし山をはじめ、五〇〇メートルを超える山が七つを数える。伊予灘沿岸は断層崖海岸で、肱川と一〇余の支流の河谷沿いに狭小な平地があるにすぎない。急傾斜地が多く水田は全面積の四パーセント足らず、畑地は一〇パーセントを超え、すべて段畑である。


長浜町
ながはまちよう

[現在地名]東区横堀よこぼり四丁目

はま町の南に続く西横堀にしよこぼり川東岸の片側町で、南は南本町みなみほんまち筋の少し南まで。古くは七郎右衛門しちろうえもん町の一部であった(東区史)。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に町名がみえるが、町域は北は備後町びんごまち通から南は北久太郎町きたきゆうたろうまち通辺りまでで、のちの椹木さわらぎ町の町域を一部含んだ。延宝七年(一六七九)一〇屋敷を同町に分離した(安政三年「椹木町水帳」大阪市立中央図書館蔵)。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数二三・役数三三役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。


長浜町
ながはままち

[現在地名]上里町三町みまち

安保あぼ町の東に位置し、「風土記稿」に「古ヘ長浜村ノ内ニシテ安保町ニ組合ヒ、宿駅トナリシヨリ別ニ町場ノ地ヲ裂テ長浜町ト唱ヘシト云」と記される。のち安保町と同様に普通の村となったが、郷帳類には長浜町と記され、長浜町村ともみえる。東は七本木しちほんぎ村。田園簿では安保町・長浜町・七本木町の一括した高が記され一千二八八石余、三町は幕府領と旗本新見領の相給。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳には長浜町として高二〇八石余、旗本鈴木領。旧高旧領取調帳には長浜町村とみえ、幕府領と旗本鈴木領の相給。


長浜町
ながはまちよう

中京区衣棚通御池下ル

南北に通る衣棚ころものたな通を挟む両側町。北を現御池おいけ通、南を姉小路あねやこうじ(旧姉小路)が通る。

平安京の条坊では、左京三条三坊二保六町の中央の地にあたる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「長はま町」とあり、以降変化はない。明治二年(一八六九)二月、姉小路室町と新町との間にあった西姉小路町の北半を合併した(坊目誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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