下田郷(読み)しもだごう

日本歴史地名大系 「下田郷」の解説

下田郷
しもだごう

現下田を遺称地とし、その一帯に比定される中世の郷。至徳三年(一三八六)五月二五日の管領斯波義将奉書案(松雲寺文書)によると、源頼朝の持仏堂を起源とする鎌倉法花ほつけ(法華堂)の造営料として別当領伊豆宇加賀うかが(現土肥町)・下田郷の年貢が充てられており、このとき山城醍醐寺地蔵院道快(法花堂別当職兼任)への返付が命じられた。明徳二年(一三九一)八月六日に重ねて道快への返付が命じられ(「管領細川頼元奉書」尊経閣古文書纂)、そのことにつき散位為基が請文を出している(同年と推定される八月二七日「為基書状」同古文書纂)。応永三三年(一四二六)一二月二七日、伊豆守護上杉憲実は幕府の命を受けて宇加賀・下田両郷を地蔵院雑掌に交付した(「上杉家奉行人連署奉書」同古文書纂)。この頃両郷に入った代官が年貢を押領したためか、法花堂造営は進まなかったようである(年未詳一〇月一六日「二階堂盛秀書状」同古文書纂)。地蔵院による両郷支配は足利義持の時代(義持は応永三五年正月死亡)にはすでに不知行であったという(「満済准后日記」永享四年五月二六日条)

下田郷
しただごう

現下田村一帯は下田郷と称された。慶長三年(一五九八)には村上藩村上氏領、次いで元和四年(一六一八)に同藩堀直寄領となった。村上氏時代を踏襲した組村制によって郷内は一括下田組となり、鹿峠かとうげ村・長沢ながさわ村・名下みようげ村にそれぞれ大肝煎が置かれている。寛永一一年(一六三四)の堀直寄領分知行高覚(堀鉄団公記)によると、元和四年から寛永一一年にかけて領内の荒廃田二万四千石が再開発された。

下田郷
しもたごう

和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「志母多」と訓を付し、井芹いせり川上流釜尾かまお(現飽託郡北部町)に下田の小村があったとして、これを遺称地とし、釜尾・徳王とくおうみつぐなどの現北部ほくぶ町西部および現熊本市花園はなぞの一―七丁目辺りにあてる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報