日本歴史地名大系 「下神代村」の解説 下神代村しもこうじろむら 岡山県:阿哲郡神郷町下神代村[現在地名]神郷町下神代・油野(ゆの)現神郷町の南部に位置し、神代川が流れ東城(とうじよう)往来が通る。集落は同川沿いに南から坂根(さかね)・河原(かわら)・三信(みのぶ)・安信(やすのぶ)・谷安(たにやす)・門前(もんぜん)・野田(のた)・岩屋(いわや)・新市(しんいち)と並び、離れて小谷(こだに)・新在家(しんざいけ)・下谷(しもたに)などがある。北部は枝村油野村で、上油野・下油野・重藤(しげとう)・三室(みむろ)・吉田(よしだ)などの集落が山間に点在する。タタラや鉄穴(かんな)流しに関連する地名が多く、下神代にはタタラ関係六・鍛冶屋関係七・鉄穴関係二六、油野にはタタラ関係一二・鍛冶屋関係八・鉄穴関係二九の地名がある。そのほか下神代にはヤソウバ(野葬場)・ヨセグラ(寄倉)・バンショウキュウ(番匠給)・マンドコロ(政所)、油野にはヨセグラ・ビシャデン(毘沙殿か)・ニジュウサンヤ(二十三夜)・マンドコロなどの地名がある(神郷町史)。下神代は西の上神代(現哲西町)とともに古代哲多(てつた)郡神代郷(和名抄)の遺称地で、同郷は中世にも公領として続いた(哲西町の→上神代村)。寛永備中国絵図に村名がみえ、松山藩領九〇四石余、神応(じんのう)寺領一〇石(幕末まで継続)。正保郷帳では高一千六七石余(うち一〇石神応寺領)、松山藩領。枝村として篠尾(ささお)村・小谷原(こだにばら)村・新在家村・下谷村・上油野村・下油野村・三室村・吉田村・重藤村をあげる。延宝九年(一六八一)の村明細帳(神郷町史)によると古高一千五七石余(神応寺領一〇石を除く)・新高一千五八八石余(同上)。新高の内訳は田方一千二一六石余・反別八三町余、畠方三一八石・反別六〇町余、川成高五三石余。前年の年貢米八三三石余、免はならして五ツ四分余。小物成は焼炭代・粟代・渋代・干わらび代・ろう代・桑代・紙漉(神代紙)代・雉子代・茶株代・楮株代・漆株代ほかがあり、茶株代は一万一千二一二株に対し銀三三六匁余、楮株代は三万二六七株に対し銀四六九匁を納めている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by