日本歴史地名大系 「上神代村」の解説 上神代村かみこうじろむら 岡山県:阿哲郡哲西町上神代村[現在地名]哲西町上神代矢田(やだ)村の北に位置し、東は下神代村(現神郷町)、北は鷹の巣(たかのす)山(八二四・三メートル)を挟んで下神代村枝郷油野(ゆの)村(現同上)、西は虫原(むしはら)山(九〇七・八メートル)を挟んで備後国小串(おぐし)村・下千鳥(しもちどり)村(現広島県比婆郡東城町)。矢田村から流れてきた神代川が北東流して下神代村に向かい、並行して東城(とうじよう)往来が通る。集落は神代川流域の桑本(くわもと)・西江(にしえ)・右原(みぎはら)・住吉(すみよし)・平古屋(ひらごや)・市岡(いちおか)、雨請(あまごい)山(六四一・八メートル)東腹の浅尾田谷(あそうだだに)、虫原山東麓の日長谷(につちようだに)、同南東麓の赤谷(あかだに)、同南麓の大(おお)茅などに散在。当地には縄文から古墳時代までの各遺跡があり、桑本・浅尾田谷には鉄穴(かんな)流しの跡がある。下神代とともに古代哲多(てつた)郡神代郷(和名抄)の遺称地。下神代村・油野村の北から東を取巻く高瀬(たかせ)村・釜(かま)村(現神郷町)、井(い)村・西方(にしがた)村(現新見市)などが新見庄に含まれたのに対し、神代郷は中世にも公領として続いた。永享元年(一四二九)一二月二日の惣社宮造営帳写(池上文書)によると「国衙御領」神代郷は棟別一間につき二〇文を課せられている。同三年神代の地頭職をめぐって、明徳四年(一三九三)六月一一日の下文ほかの証文をもとに当知行を主張する角田兵庫助と、これを押領したとされる守護被官人阿部筑前守重有との間で相論があったが、幕府は一二月三日訴人満秀敗訴の裁決を下した(御前落居記録)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by