新在家村(読み)しんざいけむら

日本歴史地名大系 「新在家村」の解説

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]窪川町土居どい

弘見ひろみ村の北、大井おおい川と柚の川ゆのかわ川の合流地にできた平地に位置する。「土佐州郡志」は「東限井之川、西限堂免、南限弘見村、北限加伊羅川」と記す。応安四年(一三七一)後三月一三日付の文書(長福寺文書)に「幡多庄仁井田村内新在家」とみえ、一条氏領幡多はた庄のうちの「新在家坐首座」に違乱があったことがわかる。

「仁井田郷談」(「南路志」所収)には仁井田にいだ庄新在家郷一二村の一で、古く土居村といったのを新在家村としたとみえるが、天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳には新在家村と土居村は別村で独立して記されている。検地段階の新在家村・土居村・中江なかえ村を併せて、江戸時代初頭に新在家村とも土居村ともよんでいたが、後に新在家村を公称としたとも考えられる。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]姫路市網干区新在家あぼしくしんざいけ網干区北新在家あぼしくきたしんざいけ

大江島おおえしま村の西に位置し、村の中央部を網干川が東流する。揖東いつとう郡に属する。西に隣接する余子浜よこはま村・興浜おきはま村とともに網干三ヵ村と称された。正徳元年(一七一一)の興浜村明細帳(渡辺家文書)に網干三ヵ村は「往古ハ御下札壱本ニ而御坐候、尤村高ハ夫々ニ分り居申候」「今ニ至り候而も諸事一処ニ申合候、田地ハ川ノ東西ニ入組御坐候」と記される。慶長国絵図に「あほし新在家」とみえる。領主の変遷は西脇にしわき村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)正保郷帳ではいずれも三ヵ村合せて網干村一村で高付される。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]摂津市新在家一―二丁目・新在家

一津屋ひとつや村北方の安威あい川左岸低地にあり、一津屋村・別府べふ村とともに「さんそん」と総称され、水防上三村だけの囲堤を形成。村の北部の堤外は新在家浦とよばれる沼地で、そこにさんまき(現高槻市)しま(現茨木市)鳥養とりかい郷・鶴野つるの新田の排水が集まって鳥飼とりかい井路に注ぐ。東は鳥養郷との境であるうげふせ縄手をもって鳥養八坊とりかいはちぼう村。集落は同縄手に沿い、村の中央を富田とんだ(現高槻市)方面への道が東西方向に通る。古代の鰺生野あじふの、中世の味原あじふ牧に含まれたといわれる(→一津屋村

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]岸和田市岡山おかやま

三田みた村の西、池尻いけじり村・尾生おぶ村の東、牛滝うしたき川の左岸に位置する。村の西部には池尻村にまたがる久米田くめだ池がある。牛滝川は三田村との村境を北流し、田治米たじめ村との村境を西流、次いで北流して今木いまき村へ入る。また支流は北流して村を貫流し、田治米村との村境で本流に合流する。牛滝街道が南東から北西進して村を貫通し、久米田池の堤上を北西進する。地名は「高野春秋」永正六年(一五〇九)三月一七日条に「池田新兵衛光遠畠山家司、以奉書、泉州新在家今高千石余四分一収納事、被宛行岡孫太郎了中泉久米田池之東有之」とみえる。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]和歌山市新在家

名草なくさ郡に属し、雑賀さいか(和歌川)上流の大門だいもん川北岸、中野島なかのしま村の東にある。村内を大和街道(大坂街道)が通り、四箇郷しかごう一里塚(国指定史跡)がある。

「日本書紀」仲哀天皇二年三月条に、天皇が南海道巡狩で紀伊国の「徳勒津ところつ宮」にいた時熊襲が背き、「徳勒津」より穴門あなと(長門)に向かったとあるが、「続風土記」は当村の古名を「徳勒津とくろつ」とし、この行宮の所在地にあてる。村内にある神社徳勒津宮の項で、「田地の字に得津といへる地は宮より東四町許にあり」と記す。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]灘区新在家南町しんざいけみなみまち一―五丁目・新在家北町しんざいけきたまち一―二丁目・大石東町おおいしひがしまち一―二丁目

大石村の東、都賀とが川河口東岸部に位置し、海に面する。村の北端を山陽道が通る。中世は都賀庄内あるいはその周辺に位置し、新在家は文安四年(一四四七)頃の夏麦山手注文(天城文書)では冬山手二〇〇文を、天正一九年(一五九一)一二月一日の若林久大夫分山手指出(同文書)では一〇〇文を負担している。慶長国絵図では東大石村とみえ、高九八石余。大石川を挟んで大石村の東側にある。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]猪苗代町三ッ和みつわ

大在家おおざいけ村の南西、磐梯山南麓裾野の扇状地平坦部に位置し、南は三城潟さんじようがた村。川西組に属した。永保年中(一〇八一―八四)には神在家(陣在家とも)と称し、戸数一六ほどの集落であったが、文安年中(一四四四―四九)疫病によって大半の村人が死去、田畑は荒地となった。その後摂津大坂から渡部内蔵之助・星民部・喜多見但馬の三人が来住して荒地を起耕、一村を開き村名も新在家と改めたという(「翁島村郷土史」「猪苗代町史」など)

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]加古川市平岡町新在家ひらおかちようしんざいけ

西谷新にしたにしん村の北西に位置する。中央部を東西に山陽道が通る。慶長国絵図に村名がみえ、その北になか村・横蔵おうぞう(現曹洞宗横蔵寺)が記される。正保郷帳によれば田方六六七石余・畑方七三石余。元文二年(一七三七)の村明細帳(寺田町内会文書)によると田四三町五反余・分米六五〇石余、畑一二町四反余・分米七石余、新田畑一六町九反余・分米一〇〇石余、小物成は犬米・茶米・草藁銀、家数一六八・人数九二五(うち出家五・大工一・医師一・商売五)、牛三七、池八、年貢藪八三、一里番所、五社大明神・大歳おおとし大明神・地蔵堂。御茶屋が寛文一一年(一六七一)に作られ、元禄七年(一六九四)廃止された。横蔵寺は白雉年間(六五〇―六五四)に法道が開創し、昌泰年間(八九八―九〇一)に宇多上皇により田地の寄進があったという(加古郡誌)

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]粉河町風市かざし

紀ノ川南岸に位置し、北は紀ノ川を挟んでしま村、東は杉原すいばら村、南は勝神かすかみ村、西は遠方おちかた村に接する。「続風土記」に「島村の出村なり、慶長六年より別に一村となるといふ」と記すように、天正一二年(一五八四)長田ながた庄の住人又助・孫三郎が島村より紀ノ川を越えて開拓したと伝える。江戸時代は和歌山藩領で伊都いと郡代官所の管下。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]淀川区新高にいたか一丁目・同三―五丁目

三津屋みつや村の北東にある。村の北部三分の一は神崎川の河川敷である。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に村名がみえるが、同絵図では当村の村高を東野中ひがしのなか村・西野中村堀上ほりあげ村と一括して記載、当初は野中村または堀上村の「新在家」であったと推定される。元和元年(一六一五)から五年まで大坂藩松平忠明(うち三年まで一部池田重利領)。次いで幕府領となり、万治三年(一六六〇)から天明四年(一七八四)までは三津屋村に同じ。天明四年から同八年まで京都所司代戸田忠寛領、同年戸田氏に代わって京都所司代となった松平乗完領となり、さらに同乗寛が後を継いだが寛政六年(一七九四)幕府領となった。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]姫路市新在家一―四丁目・新在家本町しんざいけほんちよう一―六丁目・南新在家みなみしんざいけ新在家中の町しんざいけなかのちよう北新在家きたしんざいけ一―三丁目・西新在家にししんざいけ一―三丁目・新在家

飾西しきさい郡に所属。辻井つじい村の東に位置し、北西部に八丈岩はちじようがん山がある。古くは矢落村と称された。天正(一五七三―九二)頃の姫路古地図(旧版「姫路市史」)は八丈岩山の南東麓の「矢落村」を、後世の追記の朱筆で新在家と記している。同四年の播磨府中めぐり(智恵袋)に「秩父山の北に矢落村あり、家五、六十許り見ゆ」とある。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]大野市南新在家みなみしんざいけ

真名まな川と清滝きよたき川に挟まれ、北は赤根あかね川を渡り下荒井しもあらい(現勝山市)を経て勝山城下に通じ、南は横枕よこまくら村。天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に、「新在家村分」がみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では中荒井なかあらい村に含まれた。正保郷帳によれば、当村は田方五二二石余・畠方四九石余。年貢率は、宝暦九年(一七五九)の場合、引高四二石余で毛付高に対し四ツ六分五厘、寛政四年(一七九二)の場合、引高八六石余で毛付高に対し四ツ六分であった(松田家文書)

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]東住吉区杭全くまた一―八丁目・今林いまばやし一―三丁目など

住吉郡に属し、平野郷ひらのごう町散郷四ヵ村の一(平野区の→平野郷町富田とんだ新田の西にあり、集落の北を奈良街道が通る。検討を要する文書であるが、宝徳三年(一四五一)正月一一日の河内国鋳物師座法(真継文書)にみえる「新在家村十人代家次」は当地のことと考えられる。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図では狭山さやま(現南河内郡狭山町)西井路筋に「新在家」とみえる。同一九年の大坂冬の陣で焼亡し、陣後に復興されたときの建家は二七軒、周囲に三〇四間・幅二間の環濠がある。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]揖保川町新在家

野田のだ村の南、揖保川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に新在家村とみえ、小出大和守に同村の二七八石余などが与えられている。同四年五月吉日の揖保川井堰絵図(岩見井組文書)では二筋に分流した野田井の東に村名が記される。江戸時代の領主の変遷は半田はんだ村と同じ。慶長六年(一六〇一)の検地帳(永富家文書)によると高三四九石余・反別二六町四反余、家数五〇。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では高二八九石余。正保郷帳では田方二六八石余・畑方二〇石余。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]今立町新在家

五箇ごかの一村で不老おいず村の北東にあり、北西は粟田部あわたべ村と接する。文明年間(一四六九―八七)と大永年間(一五二一―二八)の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)によれば、地名を冠する者が数名記され、大永の田数帳に付された天文一九年(一五五〇)正月晦日付の「修正月会晦夜御行之事」には「新在家村 樽一ツ」とみえる。

正保郷帳では村高二一八・一石で、田方一四六石余・畠方七一石余。大滝おおたき岩本いわもとに次いで和紙産業が盛んで、天保九年(一八三八)の御廻国様御泊り脇亭主留(加藤家文書)によると福井藩に納入した小物成の紙舟役は、大滝が銀三二五匁・岩本二五五匁、次いで新在家の二五〇匁であった。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]和歌山市小倉おぐら

那賀なが郡に属し、紀ノ川南岸にあり、東は宮井みやい堤、西は満屋みつや村。紀ノ川北岸にある同郡畑毛はたけ(現岩出町)の出村として作られた新田村であるが(続風土記)天保郷帳には満屋村枝郷と記される。山崎組に属し、寛政元年(一七八九)の酉町分ケ指出帳(広本家蔵)によると高二三一・一一石(二六町余)。田方一町余で、うち稲七反余・木綿三反余。畑方二四町余で、うち木綿一七町余・大豆四町七反余。新畑高一二一・八二八石(二一町余)

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]勝山市荒土あらど北新在家きたしんざいけ

水無みずなし山の東南方の平地に位置し、東北部は竜谷りゆうたに村、西は伊波いなみ村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一六〇六・二五石とある。ただし、この石高は以後の石高と一致しない。天明八年(一七八八)三月五日の小笠原相模守知行目録(勝山市教育委員会蔵)や「越前国名蹟考」には「新在家中村」とみえる。正保郷帳によれば田方四〇五石余・畠方二八石。

新在家村
しんざいけむら

香美かがみ村の東部に位置したとされる。古くは香美村のうちで慶長七年(一六〇二)に別帳扱となり、明暦二年(一六五六)同村に編入され、旧村域に田淵・西ノ岡などがあったというが(「市場町日記」市場町史、「阿波郡誌」)、明らかではない。天正一九年(一五九一)三月一三日の新在家村検地帳(佐藤家文書)は奥書に慶長九年一一月と記し、表題と奥書に正保三年(一六四六)に御城で書写したことが明記される。これによれば、田七町八反余・分米七六石余、畠二〇町余・分米一二三石余で、田地は中田・上下田・中下田・下田・下々田で、道ノ本・国藤寺・かわら敷・ゑん条寺口・寺ノ北・塚はり・山者那・池之下・城之下・しら坂・山田谷などに所在し、畠地は上々畠・上畠・中畠・中下畠・下畠・下々畠で、出口・宮ノ西・神木ノ本・上寺ノ北・屋敷西・東入(へいじ)・東浦などがあった。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]西尾市新在家町

市のほぼ中央に位置し、西南流する悪水路北浜きたはま川の右岸、碧海へきかい台地の東端に集落がある。村名は在家を「在郷の家」と解して、新しく成立した集落から起こったものと思われる。鎮守の氏神御鍬おくわ社は、元弘(一三三一―三四)の頃の創立と伝える。

近世の支配は西尾藩領。元文元年(一七三六)の村高二五六石六斗余、新畑一六石二斗余、銭成新田一石余(西尾領村々高反歩永引新田記)

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]當麻町大字新在家

二上山東麓、染野しめの村西方に位置。慶長郷帳の村高二〇一・二五石、幕府領(代官北見勝忠)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領、のち同藩の二割半無地高増政策で村高二五一・五六三石。廃藩置県に至るまで郡山藩領。

新在家村
しんざいけむら

[現在地名]北会津村古舘ふるだて

北は松野まつの分、南西は北後庵きたごあん村に接する。在家は出家に対する言葉で在俗を意味し、中世に領主に在家役を負担した百姓とされるので、当村も成立は中世にさかのぼるか。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高六四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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