下谷口村(読み)しもたにぐちむら

日本歴史地名大系 「下谷口村」の解説

下谷口村
しもたにぐちむら

[現在地名]伊集院町下谷口

現伊集院町の南部、下谷口川左岸の標高一五〇メートル前後の丘陵地に立地する。下谷口川流域に細長い平地が開け、集落が点在する。江戸時代中期までは上谷口村(現松元町)とともに、中世の谷口名を継承したとみられる谷口村を構成し、以降も幕府へ提出した元禄郷帳・天保郷帳や「三州御治世要覧」では谷口村一村で高付けされているが、「薩藩政要録」などによると領内では上・下二村として扱われていた。

〔中世〕

薩摩国建久図田帳に伊集院一八〇町のうちとして「谷口一四町 没官御領 地頭右衛門兵衛尉」とみえる。伊集院のうち唯一の島津庄寄郡で、地頭島津忠久が補任されていた。地頭職はのち伊集院地頭職として忠久―忠時―長久―忠宗―実忠と受継がれた(嘉禄三年六月一八日「島津忠久譲状」島津家文書など)。このうち忠久・忠時・忠宗が島津氏本宗家である。一方で地頭長久時代、その代官として伊集院に入部し勢力を伸長させた伊集院(島津)氏がおり、南北朝・室町時代前期にはこの伊集院氏が当地を支配した。同氏没落後は守護島津家の支配下に入った。島津立久が定め、永正一一年(一五一四)一二月一五日に再確認された伊集院諏訪御祭礼年四回数番帳(伊集院由緒記)に、「二番 谷口名」とみえ、諏訪明神(現南方神社)の祭礼に奉仕していた。薩州家島津実久と相州家島津忠良・貴久父子間で伊集院を舞台に合戦が繰広げられていた最中の天文五年(一五三六)一二月七日、谷口塁に拠った実久方の肥後大和守盛家が、忠良方に内応していた石谷忠栄の拠る石谷いしだに(現松元町)を囲んだという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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