日本歴史地名大系 「下長田村」の解説 下長田村しもながたむら 岡山県:真庭郡八束村下長田村[現在地名]八束村下長田上長田村の東、蒜山(ひるぜん)盆地東端に位置し、盆地内を東流する旭川が村内西原(にしばら)で大きく迂回し南下する。流れを変えた後の旭川左岸の氾濫原や山麓に、馬橋(まばし)・西原・上在所(うえざいしよ)・原林(はらはやし)・栃(とち)ノ木(き)・野田(のた)などの集落が立地する。伯耆往来が通り宿駅が置かれた。正保郷帳によれば田高二二二石余・畑高六八石、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高八二石余・開高八四石余、元禄初頭の家数八二・人数四二六(作陽誌)。領主の変遷は上長田村の分郷に同じ。西原が伯耆往来の宿の駅場で、湯本(ゆもと)宿(現湯原町)へ三里、伯耆国湯関(ゆのせき)宿(現鳥取県東伯郡関金町)へ三里余(作陽誌)。 下長田村しもながたむら 熊本県:玉名郡南関町下長田村[現在地名]南関町長山(ながやま)三池(みいけ)山(三八八・一メートル)東麓に位置し、北は上長田村・久重(くしげ)村、南は山口(やまぐち)村、西は筑後国今山(いまやま)村(現大牟田市)と接する。天文二年(一五三三)一一月に「下長田拾五町」は上長田などとともに大友氏から小代重忠に与えられ(同月一〇日「大友義鑑宛行状」小代文書)、以後、小代氏の所領として続き、天正一〇年(一五八二)七月には龍造寺政家から宛行状(同文書)を得、同一五年には加増分として「下長田村之内」で一〇町一反を佐々成政の判物(同文書)で与えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by