改訂新版 世界大百科事典 「伊達稙宗」の意味・わかりやすい解説
伊達稙宗 (だてたねむね)
生没年:1488-1565(長享2-永禄8)
戦国大名。陸奥国桑折(こおり)西山城主。陸奥国守護。直山また受天と号する。尚宗の子。母は越後守護上杉定実の娘。1517年(永正14)将軍足利義稙の一字を受けて稙宗と称し,左京大夫に任ぜられた。32年(天文1)伊達郡梁川より同郡桑折西山城に移り,子息晴宗と争った天文の乱(1542-48)後,伊具郡丸森に隠退し,同地で死去した。この間,1522年(大永2)ころ陸奥国守護となり,35年棟役日記,38年段銭古帳を作成し,また36年家法《塵芥集》を制定するなど,伊達氏の戦国大名化に画期的な役割を果たした。半面では棟役・段銭賦課の強化により家中の反発を招いた。天文の乱の契機となったのは子息実元の入嗣問題であるが,その基本的原因はこの家中の反発にあったとみられる。二十数人の子女のうち2男6女までを相馬,蘆名,大崎,二階堂,田村,懸田,葛西などの諸家に入嗣・入嫁させ,この政略結婚により奥羽中南部に絶対的な地歩を築き上げた。
執筆者:小林 清治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報