日本歴史地名大系 「与津村」の解説 与津村よつむら 高知県:高岡郡窪川町与津村[現在地名]窪川町興津(おきつ)高岡郡最南端の村。北は大弦津(おおつるつ)村・与津地(よつじ)村、西から南は幡多(はた)郡で東は海に面する。大弦津村・与津地村との境には六川(むかい)山(五〇七メートル)がそびえる。村の中央部から南に突出する小半島に三崎(みさき)山(二一八メートル)があり、六川山に続く山々と三崎山の間に狭小な平地が開ける。この平地が与津村の郷分で、小半島の東部には与津浦がある。小室(おむろ)・島戸(しまど)・杓子(しやくし)・荒平(あらひら)の四つの津があるので与津とよぶようになったといわれる。当村にあった円蔵(えんぞう)寺の打板(雲版)の銘(古文叢)に「時応永十八歳十一月土佐国幡多県仁井田与津村要津山円蔵寺住持比丘自得」とみえ、応永一八年(一四一一)には与津村が仁井田(にいだ)に含まれ幡多郡の一部であったことがわかる。「仁井田郷談」(「南路志」所収)によると与津は古来幡多郡に属し、一条氏の直轄地で代官が常駐、一条氏幕下の東氏が与津城にいて三河守・伊賀守・丹後守と三代にわたって代官職にあったが、のちに中西筑後が村内的地(まとうじ)城に拠って当地を統轄したという。その後一条氏を滅ぼした長宗我部氏の支配地となった。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳に村名がみえ、小村のシマト村も含めて地積五五町四反余、塩浜九九浜半、ヤシキ二一八筆で窪川分・西原分と中西筑後の給地が混在。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by