デジタル大辞泉
「佐々木高行」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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ささき‐たかゆき【佐々木高行】
- 政治家。侯爵。土佐藩(高知県)出身。初名は高富(たかあつ)・高春。通称三四郎。早くから勤王の志を抱き、土佐倒幕運動の一中心となる。明治三年(一八七〇)参議となり、のち司法大輔、工部卿、枢密顧問官などを歴任。日記「保古飛呂比(ほごひろい)」は幕末・維新期の第一級資料として知られる。天保元~明治四三年(一八三〇‐一九一〇)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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佐々木高行 (ささきたかゆき)
生没年:1830-1910(天保1-明治43)
明治時代の官僚政治家。初名は高富,高春,通称は三四郎。土佐藩士の家に生まれ,国学を学び,剣術を修めて江戸に遊学,早くから尊王攘夷論に共鳴した。1866年(慶応2)藩命を帯びて筑前太宰府に出張して情勢を視察,翌年は大目付として長崎に出張,坂本竜馬と提携して国事を周旋,戊辰戦争がおこると長崎奉行所を支配し,68年(明治1)には長崎府判事となった。70年参議,71年には司法大輔となり岩倉使節団に随行して欧米の司法制度を視察して帰国,征韓論争,西南戦争にも政府内にとどまり,78年の大久保利通死後は元田永孚らとともに天皇親政運動を推進,明治14年の政変(1881)後,参議兼工部卿となり,88年枢密顧問官,また皇太子の御養育之任を務めるなど,宮廷に近侍した。
執筆者:宇野 俊一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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佐々木高行
ささきたかゆき
[生]文政13(1830).11.12. 土佐,瀬戸
[没]1910.3.2. 東京
幕末,明治の政治家。土佐藩士。通称は三四郎。藩の尊攘派上層武士として勤王党とは一線を画しつつ幕末の政局に奔走。慶応3 (1867) 年,後藤象二郎らと藩主に説いて大政奉還を幕府に勧告させた。明治政府に登用されて参与,刑法副知事,刑部大輔と司法畑の重職を歴任。明治3 (70) 年参議,翌年司法大輔となり,岩倉遣外使節に随行してヨーロッパ諸国の司法制度を調査。征韓派の板垣退助ら土佐派が下野した際もこれに同調せず,西南戦争の際には土佐の立志社に起った反乱陰謀を弾圧した。天皇の侍補をつとめ,のち,1881年参議兼工部卿。 88年には枢密顧問官となった。侯爵を授けられた。晩年,明宮 (のちの大正天皇) の御教養向主任となった。津田茂著『明治聖上と臣高行』 (1928) がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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佐々木 高行
ササキ タカユキ
- 肩書
- 枢密顧問官
- 生年月日
- 天保1年10月12日(1830年)
- 経歴
- 国学、兵学、剣道を修め、尊攘派として土佐藩内の保守、公武合体、勤王各派の間に立って活躍。慶応2年藩主山内容堂の命で太宰府にあった三条実美を訪ね、帰国後藩論を倒幕にまとめた。さらに坂本龍馬らと図り藩主に大政奉還の建議を勧めた。明治元年鳥羽伏見の戦いでは長崎奉行所を占領、治安維持に尽力。維新後新政府にあって長崎裁判所助役を振り出しに参議、司法大輔に進み、明治4年岩倉具視に従って欧米視察。6年征韓論で下野せず、10年西南戦争には、西郷軍についた立志社の片岡健吉、林有造らを逮捕させた。14年参議兼工部卿、21年枢密顧問官となり、明宮(大正天皇)らの教育主任。42年侯爵。
- 没年月日
- 明治43年3月2日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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