夷町(読み)えびすまち

日本歴史地名大系 「夷町」の解説

夷町
えびすまち

[現在地名]両津市夷

市域のほぼ中央、両津湾頭砂嘴上の北側にある。北には谷地やち、西には浜田はまだ福浦ふくらの集落があり、加茂かも湖と接する。東は両津湾に臨み、南は加茂湖と海の出入口にかかる両津欄干りようつらんかん橋でみなと城の内しろのこしと境する。町屋は北側からかん町・なか町・しも町に分け、南北に延びる本通の加茂湖側の川方かわかたと海側の海方うみかたに軒を並べる。生活単位として諏方すわ神社祭礼の組名大上組・平組・上組・中組・船組・鉾組・大下組・片町組がある。夷の地名は、慶長一六年(一六一一)の御作事入用日記(川上家文書)正月四日条に「朝夷ヘ被出候ニ付」と記される。寛文一〇年(一六七〇)の夷町小物成納方之覚(臼杵家文書)には、上杉謙信没後の供養に、島内真言宗僧侶を夷町六郎左衛門の大船で越後へ送ったと記される。同文書によると、天正三―四年(一五七五―七六)頃まで、久知本間氏に対し猟役として鱈・・烏賊役を生肴で運上、この年干鱈四一二枚・干二千六四〇枚・干烏賊九千六〇〇枚を銀納、械役銀一一三匁余を納めている。

天正一七年夷湊代官には北村孫兵衛・須賀修理が配置されたという(佐渡名勝志)近世に入り漁業相川あいかわ新穂にいぼ(現新穂村)の金銀山の隆盛により夷湊番所も設置され、他国からの物資の移入港として成立した。正徳三年(一七一三)の夷湊問屋往古由緒書(河内屋文書)には、夷湊番所付問屋一二人のうち、夷町には六人の名がみえ、この問屋衆によって町方支配が始まった。


夷町
えびすちよう

東山区三条通白川橋東入三丁目

三条通の両側に位置。西は神宮じんぐう道。神宮道は応天門おうてんもん通ともいい、もとは粟田口あわたぐち門前の細道であった。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「此町北側に一筋道有、南禅寺鳥谷へ行所也」とある道筋にあたる。明治二七年(一八九四)平安神宮の創建に伴い、東側を拡張して大道路となった。南側は青蓮院しようれんいん門前にあたり、「此御門に入て西南へ行ば庚申堂・元三大師・よね地蔵(金蔵寺)の内へ出、白川橋筋梅の宮町へ出る也」(同書)とある。

正保四年(一六四七)八月、町地となったとする(坊目誌)がよるべき史料を欠き、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「夷町」とみえるから、開町はこれを下らない。


夷町
えびすまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目・照手てるて一丁目

上呉服かみごふく町を西に折れたところにあり、東西に延びる町で、西は上三橋かみみつはし町、北は上寺かみてら町、南はしお町。町名は慶長六年(一六〇一)結城ゆうき(現茨城県結城市)より当町に引越した西宮恵比須にしのみやえびす社に由来する。慶長年間北庄四ツ割図には「海真町」と書かれ、家数五〇。町の南側東方に「海真」(社)がみえる。万治二年(一六五九)御城下之図にも海真町とみえ、貞享二年(一六八五)福居御城下絵図以降夷町と記される。


夷町
えびすちよう

[現在地名]津和野町後田うしろだ

下久保しもくぼ町の北、永大えいたい院前から西町にしまち通とぶつかる東西道に沿う町人町。戎・蛭子とも記す。そう町の北西際に位置し、永大院前から石垣が築かれている。ふくろ町までのかみノ町、その東の下ノ町からなる。寛永一四年(一六三七)の津和野町町屋敷帳(津和野町郷土館蔵)に町名がみえず、袋町・久保町同様、元禄一四年(一七〇一)・同一六年に後田村新田が屋敷地に変えられて成立したと考えられる。


夷町
えびすまち

[現在地名]水口町本町ほんまち一丁目

ばん町の東、東海道を挟んだ両側町。南は永原ながら町、北は呉服ごふく町と接する。西端は南北に伊賀街道が通り、魚屋うおや町・かぎ町が連なる。慶長七年(一六〇二)の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)に「ゑびす町」とみえる。蛭子町・恵美須(酒)町とも記した。延宝七年地子赦免帳では恵美酒町とあり、居屋敷二四・番屋敷一、屋敷地の間口は最大六間一尺余・最小三間一尺余であるが、全体にばらつきは少ない。


夷町
えびすちよう

[現在地名]厳原町久田道くたみち

久田道町の南にある。府中ふちゆう商人町二四ヵ町の一つで、恵比須町とも記し(津島紀事)、夷崎ともいう。愛敬恵比須と称する浜殿御子はまどのみこ神社が鎮座。万治二年(一六五九)海岸に沿って新道を開き、延宝年間(一六七三―八一)居宅を構えるようになったという(同書)。延宝四年の屋敷帳(宗家文庫文書)では「恵美須崎」に大浦六兵衛の居宅がみえる。


夷町
えびすちよう

中京区間之町通夷川下ル

南北に通る間之町あいのまち通の両側町で、北は夷川えびすがわ(旧冷泉小路)

平安京の条坊では左京二条四坊二保四町の中央部。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「相ノ町夷町」とある。その後、筆描図系の元禄末期洛中絵図、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図では「蛭子丁」とある。木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図には「ゑびす町」とある。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」以降は「蛭子町」となっている。


夷町
えびすちよう

[現在地名]大津市中央ちゆうおう二丁目

後在家ございけ町の北、中町通の太間たいま町との間にある横町。「輿地志略」に戎町、寛保二年町絵図に夷町とある。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)には恵比須町とみえ、元禄八年町絵図では恵美須町、番屋一軒を含めて家数二八を数える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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