日本歴史地名大系 「中之内村」の解説 中之内村なかのうちむら 栃木県:那須郡黒羽町中之内村[現在地名]黒羽町中野内(なかのうち)大蔵(おおくら)村(河原村)の南にあり、西は大輪(おおわ)村、東は寺宿(てらじゆく)村。中央を後松葉(うしろまつば)川が流れる。黒羽城下より伊王野(いおうの)(現那須町)への道が通る。中ノ内、中野内とも記される。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「中之内」があり、田中(たなか)とともで一三四石六斗四升(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。以後黒羽藩領。寛文年中(一六六一―七三)の惣給人知行高ならびに所付帳(同館蔵)では桑島左近右衛門三七石余、小滝与次右衛門四三石余の給地があった。「創垂可継」封域郷村誌巻一には枝村として鍛冶内村と荒屋村をあげるが、同巻二には当村は記載がない。 中之内村なかのうちむら 鹿児島県:曾於郡大隅町中之内村[現在地名]大隅町中之内菱田(ひしだ)川上流の佳例(かれい)川と前(まえ)川との間の丘陵地帯に形成された集落。末吉(すえよし)郷のうちで、南は大谷(おおたに)村など。当地は島津氏の三州統一の頃、島津氏と新納氏が抗争した場所で、島津方の北郷氏が当地にあった岩川(いわがわ)新城を攻略したという(「鹿児島県史」「三国名勝図会」など)。慶長(一五九六―一六一五)以前は梶(かじ)ヶ野(の)村・土成(つちなり)村・田尻(たじり)村に分れていたとされる(「三国名勝図会」など)。五拾町(ごじつちよう)村は慶長年間から一所持格家老職伊勢家の私領であったが、元和六年(一六二〇)島津家久の子貞昭が嗣子として伊勢家に迎えられると、当村は伊勢家の加増分とされ、その私領となった。 中之内村なかのうちむら 兵庫県:津名郡津名町中之内村[現在地名]津名町生穂(いくほ)佐野(さの)村の南西にあり、南は生穂(なまりほ)浦。生穂(いくほ)川が南流して海に入る。正保国絵図に「生穂中内」とみえ、高八三三石余。延宝四年(一六七六)の品々帳(正井家文書)では高一千二七〇石余。天保郷帳では高一千二〇六石余。志筑組に属する。反別戸数取調書によれば反別一一六町一反余、高一千九五八石余で蔵入高一千九七八石余。ほかに四社明神社(現賀茂神社)領一石余・高滝(こうたき)寺領一石があった。「味地草」の家数三二七。反別戸数取調書では家数三四六・人数一千二九八。 中之内村なかのうちむら 栃木県:那須郡南那須町中之内村[現在地名]南那須町大金(おおがね)田野倉(たのくら)村・岩子(いわこ)村の南、荒(あら)川右岸の河岸段丘上に位置する。東は東原(とうばら)村、南は大金村。中ノ内村、中野内村とも記した。元文二年(一七三七)大金村よりの分村と伝えるが、すでに元禄郷帳に村名がみえ、高五七石余、大田原藩領、以後同藩領で幕末を迎えたと考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by