中坪村(読み)なかつぼむら

日本歴史地名大系 「中坪村」の解説

中坪村
なかつぼむら

[現在地名]伊那市大字手良中坪てらなかつぼ

棚沢たなざわ川の中流南部の山麓傾斜地に開けた村で、笠原かさはら村の北にあたる。古代の手良郷の一部で、竜の沢りゆうのさわ地籍には、大百済毛おおくだらけ・小百済毛という地名があり、百済の帰化人によって開発されたという伝承もある。また、笠原村境には郷の坪ごうのつぼという地名もある。諏訪社上社の伊那廻りたたえ神事の神使巡行の村で、文明二年(一四七〇)の「伊那廻湛日記」(矢島文書)に「中津ほ」とみえる。

江戸時代を通じて幕府領で千村氏の預り地で荒町あらまち陣屋(現飯田市)の支配を受けた。千村氏の預り地は榑木くれき地であったが、伊那地方は榑木が不足で金納の時代のほうが長かったようである。

中坪村
なかつぼむら

[現在地名]八幡町中坪

吉田よしだ川支流の小駄良こだら川下流に位置し、南は八幡町。永禄(一五五八―七〇)頃の在地土豪として鷲見新藤治範綱が知られる。範綱は向鷲見むかいずみ(現高鷲村)城主鷲見光安の従弟で、中坪尾坪洞おつぼほらの城におり、弘治二年(一五五六)の斎藤家の内戦では道三方についた(美濃国諸旧記)正保郷帳に田方六〇石余・畑方一二石余とある。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)は「町五か村」に位置づけ、家数七(水呑五)、侍屋敷の引分は二斗八升余。安永二年(一七七三)の郡上領留記(大西文書)では寺が多く、御立山一があり、小駄良川には地頭普請の小駄良橋(別名洞泉寺橋)が架けられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報