朝日日本歴史人物事典 「中川修亭」の解説
中川修亭
生年:明和8(1771)
江戸後期の漢蘭折衷医。名は故,定故,字は其徳,号は壺山,通称は周貞,修亭,堂号は抱神堂。京都に生まれ,天明の大火で罹災して紀伊の華岡青洲の食客となり,諸家の薬方を整理した『禁方録』の編纂に協力,福島芳翁,松浦耕輔らに面接してその医術を学び,京都に戻って吉益南涯の門に入り古医方に精進,さらに海上随鴎の蘭学塾で蘭学を修め,その間に三浦蘭阪,梅川重高ら上方の文人墨客と交遊した。青洲の麻酔薬研究の情報入手に協力して『麻薬考』を選し,駆梅用水銀剤の製造研究にも当たった。大坂難波で没。<著作>『成蹟録』『医方新古弁』『本朝医家古籍考』『升汞丹製法秘録』<参考文献>宗田一「華岡青洲の門人第一号とされてきた中川修亭についての補訂」(『漢方の臨床』31巻7号)
(宗田一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報