中牟田倉之助(読み)なかむた・くらのすけ

朝日日本歴史人物事典 「中牟田倉之助」の解説

中牟田倉之助

没年:大正5.3.30(1916)
生年天保8.2.24(1837.3.30)
明治期の海軍軍人。佐賀藩士金丸文雅と石子の次男。嘉永1(1848)年,母の弟中牟田武貞の養子になる。藩の小学蒙養舎から藩校弘道館へ進んで儒学,数学を学び,また選ばれて蘭学寮へ転じてオランダ語の習得に努めた。フェートン号事件以来,海防を重視する藩の方針に基づき,安政3(1856)年長崎海軍伝習所へ派遣され,得意の数学を生かして航海術を選択,ここで艦船操縦の基礎を学び,卒業後藩の三重津海軍学寮の教官に起用された。戊辰戦争では藩の新鋭艦「孟春丸」を率いて東征に参加,さらに明治2(1869)年,箱館(函館)の榎本艦隊を撃破するため砲艦「朝陽丸」で北上,僚艦「甲鉄」「春日」と箱館湾内に突入したが,「蟠竜」からの一弾を火薬庫に浴びて爆沈,自らも重傷を負いイギリス艦ヘーグ号に救助された。明治4年兵部省兵学寮の権頭に起用され,新海軍形成過程において,新艦建造とともに急務だった海軍士官の育成に努め,諸藩から集めた学生たちをよく統制して修業させ,この中からのちの首相山本権兵衛をはじめ,上村彦之丞,片岡七郎,三須宗太郎ら日清・日露両戦争で活躍した海軍の中心人物が出た。また6年建議して,イギリスからダグラス以下34人の海軍教師団を招き,その後の日本海軍がイギリス流に発展を遂げる基礎を築いた。海軍省副官,横須賀造船所長を経て海軍中将に進む。14~15年海軍大輔,東海鎮守府長官を務めてのち,17年子爵。横須賀,呉の各鎮守府長官を歴任,26年初代海軍軍令部長に就任したが,翌年枢密顧問官に退いた。<参考文献>中村孝也『中牟田倉之助伝』

(山崎有恒)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「中牟田倉之助」の解説

中牟田 倉之助
ナカムタ クラノスケ


肩書
枢密顧問官

生年月日
天保8年2月(1837年)

出身地
肥前国佐賀

経歴
戌辰戦争に際し東北に従軍する。明治2年函館の役には朝陽艦長として奮戦しその勇名を轟かす。3年海軍中佐に任ぜられ、4年少将にのぼる。8年江華島事件に際しては西部指揮官として朝鮮に出動。10年西南戦争に軍艦を率いて勲功をあげ、11年中将となる。横須賀・呉の鎮守府長官、海軍大学校校長などを歴任。26年には初代の海軍軍令部長となり、27年枢密顧問官となる。なお、17年華族に列して、子爵を授けられている。

没年月日
大正5年3月30日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中牟田倉之助」の解説

中牟田倉之助 なかむた-くらのすけ

1837-1916 幕末-明治時代の武士,軍人。
天保(てんぽう)8年2月24日生まれ。肥前佐賀藩士。長崎の海軍伝習所でまなび,戊辰(ぼしん)戦争では軍艦を指揮し箱館(はこだて)まで転戦した。明治11年海軍中将。横須賀・呉鎮守府初代司令長官や初代軍令部長をつとめた。枢密顧問官。大正5年3月30日死去。80歳。本姓は金丸。名は武臣。

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