日本歴史地名大系 「中迫村」の解説 中迫村なかざこむら 広島県:比婆郡西城町中迫村[現在地名]西城町中迫中野(なかの)村の西に位置し、西城川支流の大屋(おおや)川中流域にある。東と北は標高五〇〇―七〇〇メートルの山々が連なり、耕地は大屋川両岸の谷あいにある。本郷の北の山中にある飛郷福山(ふくやま)は中野村・入江(いりえ)村分田鋤(たすき)・同村分別所(べつそ)に囲まれ、「国郡志下調書出帳」は本郷の郷倉から福山の郷倉まで三四町五〇間の距離があったと記す。大屋村の「国郡志下調書出帳」に「当村隣村中迫村者先年宮の谷とて当村枝郷之処村分ニ相成候」とあり、中迫村は古くは宮の谷(みやのたに)とよばれた地で、大屋村に属していた。分村の時期は明らかでなく、元和五年(一六一九)の備後国知行帳には、「中さこ村」として二二七石余が記される。 中迫村なかばさむら 和歌山県:那賀郡岩出町中迫村[現在地名]岩出町中迫(なかぶさ)水栖(みずす)村の南西にあり、村の西部を根来(ねごろ)川が南流、並行して根来往還が通る。また北東部を藤崎井(ふじさきい)用水が西流する。「続風土記」は「此村川の堤の傍にありて東西は地高く、地形迫間の如くなるより、中迫の名起れるならん、ばさは迫間の下略なり」と記す。中世は石手(いわで)庄に含まれていたと思われる。慶長検地高目録によれば村高六一〇石余、小物成四斗三合。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田三四町四反余で高五五七石余、畑四町余で高五三石余。二歩米一二石二斗一升九合八勺でこの銀七三三匁一分九厘、御種借米は元米二四石四斗三升九合でこの利米四石八斗八升七合八勺。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by