大屋村
おおやむら
[現在地名]西城町大屋・中野・油木
中迫村の西に位置する。集落の大部分は今櫛山の東麓にある。耕地は井西山(一一八七メートル)に発する大屋川源流域の黒谷や二本栃の谷あいにもあるが、大部分は今櫛山南東麓の本谷に広がる。地名は天正一七年(一五八九)一一月一七日付三河内通忠同通亮連署預ケ状(井西文書)に「今度神左衛門至大屋罷退候ヘ共」とみえる。
元和五年(一六一九)の備後国知行帳では高九〇〇石余。広島藩領で明知・給知入交じり。小谷の水によったので旱損を生じやすく、寒冷地のため麦作も適さず、西城町の鍛冶屋などへ薪炭を売ったが、遠距離のため十分な稼ぎとならなかった(国郡志下調書出帳)。
大屋村
おおやむら
[現在地名]武生市大屋町
村国山東麓にあり、古代の大屋郷(和名抄)、中世には大屋庄の地。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西郡中に村名と高一一一一・一六石が記され、正保郷帳によると田方一千七〇石余・畠方四一石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時土岐頼殷領となるが、享保六年(一七二一)以降は鯖江藩領。文化一五年(一八一八)の御領分村高家数人別寺院留帳(「越前宗門帳」所収)によると家数七〇・人数二七〇。
大屋の南端、堀兼川と赤川が接近して流れる字逢岐は、岩内・庄田・平林・小野谷・矢放の村境が集まる所で、古来水論が絶えなかった。正徳年間(一七一一―一六)岩内村との間で出入が生じ、大屋・葛岡の「古来大道の下に埋樋があるのは渇水期に赤川から堀兼川に引水するためのものだ」という主張に対し、岩内は「埋樋は堀兼川が山崩れで埋もれた時、一時赤川へ流しそれを引水したときのもの」として対立。
大屋村
おおやむら
[現在地名]智頭町大屋
慶所村の南東にあり、土師川右岸に合流する大屋川の中・上流域に集落が点在する。「因幡志」は民家のある字として土居・クエキ・花ノ木・宮下・月ノ瀬・炭屋・半田・一反田・稲場をあげる。南東へ草原峠(右手峠)を越えると美作国勝北郡右手村(現岡山県勝田町)に、東に行き大師峠を越えると白坪谷の奥村に至る(因幡志)。拝領高は二五七石余。野田氏・前川氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高二八〇石余、毛付高三一八石余、本免六ツ五分、同年の物成高一八七石余、ほかに藪役銀一一匁五分が課されていた。
大屋村
おおやむら
天船坂本村の北、笠形山の東、野間川の最上流域に位置する。北は峠を越えると的場村(現加美町)に至る。慶長国絵図に村名が記され、南に「同」と記載される。正保郷帳では田方八六石余・畑方二五石余、山役・鉄砲役・炭竈役があり、幕府領。旧高旧領取調帳でも同領。延宝五年(一六七七)の検地帳(大屋区有文書)によれば高一二二石余・反別一五町八反余、小物成は山手銀二八匁・炭竈役銀二四匁・鉄砲役銀九匁・野藪役銀二分。
大屋村
おおやむら
[現在地名]上田市大字大屋
千曲川に依田川が合流する対岸一帯の村。東は本海野村(現小県郡東部町大字本海野)、西は岩下村、南は千曲川を隔てて石井村(現小県郡丸子町大字塩川)、北は下吉田村・下深井村(現小県郡東部町大字和)と境をなす。この村の千曲川北岸を東西に北国脇往還が通り、この道から南へ分れる諏訪道の分岐点に集落がある。
永禄八年(一五六五)一一月、諏訪社上社の祭礼を再興させるための武田信玄による諏訪社上社造営再興次第(諏訪大社上社文書)に、「正物合五俵六舛六合」として、上社大宮御門屋の造営料を課せられた。
大屋村
おおやむら
[現在地名]呉市天応町・弥生町
吉浦の北に位置し、東は焼山村、北は坂村(現安芸郡坂町)、西は瀬戸内海に臨む。西以外の三方をほぼ標高二〇〇―四〇〇メートルの山に囲まれ、村内を西流して海に入る大屋川の下流にわずかな平地が開け新開も形成される。安芸郡に属した。
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では押込村とともに矢野村(現広島市安芸区)に含まれており、享保初年成立の広島藩御覚書帖は矢野村の項に朱書して、「只今免帖ニハ五ケ村ニ分リ申候」と記し、矢野村・大屋村・押込村、平谷村・川角村(現安芸郡熊野町)を記している。「芸藩通志」には田畝二三町五段余、高二七五・二二五石とあり、明治三年(一八七〇)の郷村帳(「芸藩志拾遺」所収)には高二八〇・八八四石、うち九・八六石が新田とある。
大屋村
おおやむら
[現在地名]新宮町大屋
栗栖川を挟んで平野村の南西に位置する。戦国期には揖西郡栗栖庄の一村であった。天文一二年(一五四三)九月六日の佐野秀綱連署折紙(平野区有文書)に「栗栖庄平野村与大屋村申結公事篇儀」とみえ、両村間の紛争が解決している。また天正二年(一五七四)に両村の用水相論が起きた際、両村を支配下に置いていた赤松広貞が裁決を行っている(七月一一日「恵藤省吾・円山利延連署書状」・天正二年七月二六日「赤松広貞裁許状」同文書)。
慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代にも揖西郡に属した。
大屋村
おおやむら
[現在地名]珠洲市三崎町大屋
粟津村の西方、粟津川の上流域にある。「三州志」に垣内としてみえる方上は平安時代末期からみえる方上保の遺称である可能性がある。正保郷帳に村名がみえ、高一九六石余、田一一町七反余・畑一町三反余、新開高二三石余(免二ツ一歩四厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二二八石、免四ツ九歩、小物成は山役一八一匁、鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)の組付覚帳(桜井文書)では定納口米は地方八三石余・浜方四〇石余、百姓数二四・頭振数一。嘉永六年(一八五三)の奥郡塩決算帳(坂上文書)では出来塩二千三五俵・過上米六五石余。
大屋村
おおやむら
[現在地名]横手市大屋新町・大屋寺内
横手の南、羽州街道沿いにあり、東は山地。大谷村とも書く。「雪の出羽路」に、大屋新町村の光徳寺に伝わる蓮如上人真影の裏書に寛永一五年(一六三八)出羽平鹿郡横手大屋村の村名があると記す。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図にも大屋五八八石とあり、享保一四年(一七二九)の郷村御調覚書(県立秋田図書館蔵)に「正保帳大屋村と記、大屋新町村、大屋寺内村之高を纏候」とあって新町と寺内二村の総称であった。また、同年の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「元禄右高ニ而大屋新町村、古ハ大屋村と記、別ニ大屋寺内村江も元来之有高ヲ記、誤而新田出」とあり、幕府への届では大屋村となっていた両村は、藩政初期から独立の高付村であった。
大屋村
だいやむら
[現在地名]朝日町大屋
海に面しており、東は横尾村、西は東草野村、南は沼保村。正保郷帳では高二四石余、田方一町六反余・畑方一畝。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五七石、免四ツ二歩、小物成は外海船櫂役二八匁(三箇国高物成帳)。享保四年(一七一九)検地出高など二度の増高により、天保一一年(一八四〇)の草高五九石(「高免帳」杉木家文書)。泊町が享保三年現在地に移転するまでは北陸街道が当村を抜けており、明暦三年(一六五七)には粗悪な家屋を改修するため銀三〇〇匁を下付された(「刑部留帳」島尻村伊藤家旧蔵)。
大屋村
おおやむら
[現在地名]新庄町大字大屋
寺口村東方、傾斜地村落。慶長郷帳では幕府領(代官間宮三郎右衛門)。村高一四三・二三二石。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領に編入され、延宝八年(一六八〇)永井直円領となる。郡山藩時代二割半無地高増政策で村高は一七九・〇四五石と増加している。また布施氏滅亡後、大坂に出て商いを営んだ杉岡半兵は老いて帰郷後、公益のため新庄村に「三才」の大橋を架橋した(新庄町史)。
大屋村
おおやむら
[現在地名]赤坂町大屋
今井村の北方山上約二〇町に位置。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)に軽部庄「大矢村」とみえる。寛永備前国絵図には大屋村とあり高一三八石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高一五五石余。貞享元年の荒などを引いた残高一六二石余。「備前記」に枝村屋坂が載る。享保六年(一七二一)には田畠一三町三反余、家数二九・人数一五九、池八(備陽記)。
大屋村
おおやむら
[現在地名]大田市大屋町大屋
鬼村の西に位置し、静間川の支流笹川の上流部を占める。村名は当地開拓神大屋姫命神社が鎮座することに由来するという。応徳元年(一〇八四)九月一〇日の清原正宗譲状(久利文書)に久利郷の西の境界として「大屋河尻」とみえる。正保国絵図に村名がみえ、高三三四石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によると田方二七七石余・畑方五七石余、年貢高は米一三八石余・銀四五一匁余。
大屋村
おおやむら
[現在地名]菊水町大屋
北境を菊池川が西流し、東は焼米村、西と南は高野村に接する。近世は内田手永に属する。「国誌」に「高百二十六石余」とあり、宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳によると惣畝数九町八反七畝余、分米一二七石六斗余。天保五年(一八三四)の内田手永手鑑では田四町六反八畝余・畑三九町二反二畝。明治一一年(一八七八)頃の戸数三六・人数一五九、馬三四、日本型船六(五〇石未満荷船)、堤浦溜池を用水とする。
大屋村
おおやむら
[現在地名]福井市大矢町
大味川支流域の谷間に位置し、北は風尾村と接する。村名は正保郷帳にみえ、田方一二石・畠方二八石余。福井藩領。「越前地理指南」に「南ニ滝アリ、漲リ五丈、幅九尺。東ニ観音堂アリ、境内ニ槙大木アリ、七囲半」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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