改訂新版 世界大百科事典 「作間稼」の意味・わかりやすい解説
作間稼 (さくまかせぎ)
農間稼,農間余業ともいう。江戸時代の農村で,耕作の合間に手間稼や商売を行うこと。農業以外の職業に兼従する農民の存在は,村明細帳などの記録にかなり早い時期にも見られる。それらは木挽,野鍛冶,屋根葺き,大工等の自給的農村生活を維持するに必要な職人的職種が主体であり,時代をくだるとまき採取,炭焼き,わら加工,機織,駄賃稼,各種小商など,各地の事情に応じて作間稼の種類は多種多様となる。江戸時代の百姓は原則として商業行為を禁止されていたが,中期以降,商品貨幣経済の農村への浸透にともなって作間稼,作間商が普及し,畿内農村,江戸周辺農村,街道沿いの村々,河岸場村,在郷町などには多数の農間余業渡世が出現した。これに対する領主の関心も増大し,1722年(享保7)以降,幕府はたびたび触れを出して新規作間商渡世を禁止したが実効はなかった。
作間稼の種類・普及状況を伝える史料には,村明細帳の類のほか農間余業取調帳がある。関東での初見は1766年(明和3)相模国足柄上郡金井島村の商人書上帳(《神奈川県史》資料編5)で,この時期以降,農間余業調査が繰り返し行われた。1805年(文化2)関東一円の治安強化をねらって設置された関東取締出役のもとでは,無宿,悪党の追捕とともに農間余業渡世人,在郷商人の掌握を重視し,農間余業調査を実施し,新規の余業渡世人の増加を規制して村落秩序の動揺を防止しようとした。とくに文政改革以後,代官の手付・手代が関東取締出役として組合村を回村し,農間余業調査を再三実施した。調査ではあらかじめ雛形を提示して調査項目を指示し,村内で商業,加工業に従事する者の人名,業種,営業開始年などを取り調べた。武蔵16郡中の村々に残る文政・天保期(1820-40年ごろ)の農間余業取調帳によると,業種には階層性があり,余業の分布状況には地域差が見られる。街道筋や脇往還沿いの村々には居酒屋,煮売屋,水茶屋,駄菓子屋,湯屋,雑穀小商,履物商などが現れ,それらの多くは無高,地借,店借などの零細商人である。宿場,在郷町には穀商売が多く集まり,その中には穀問屋を営む者も含まれている。武蔵東部の水田地帯では余業従事者が少なく,逆に西部の畑作優位の地域では余業従事者がやや多い。畑方永納と結びつく貨幣獲得の必要性が農間余業への依存度を高めている。質物渡世(質屋)は各地に広く分布し,高持あるいは上層農民がそれを営んでいる。
畿内農村,とりわけ大坂周辺農村では,農産物の商品化と結びつく農間余業が広範に成立していた。大坂道頓堀に南接する畑場八ヵ村は大坂市中への日常的な蔬菜供給地となり,その外側には土地条件に応じて綿作地帯,菜種作地帯が広がり,灘酒造地帯の周辺には酒造米を販売する村々が出現するなど,各地域では農産物販売を担う在郷商人が現れていた。商業的農業の発展は必然的に農産物加工業の発展をともない,和泉の丘陵地帯や河内の生駒山麓地域には綿織物業地帯が成立し,摂津武庫郡には水車による絞油稼の地域が出現していた。幕末期大坂周辺農村での余業の種類,普及状況については,河内,和泉の12ヵ村に関する田安家による天保末~嘉永期(1840-50年ごろ)の調査が残っており,綿業,絞油業などを中心にしつつ村落立地に応じた多種多様の農間余業が書き上げられている。中でも和泉大鳥郡下石津村では,2戸の絞油業従事者と18戸の綿織物業従事者のもとで,マニュファクチュアによる生産を想定しうる。マニュファクチュアを頂点にして,その裾野には農村家内副業としての多数の零細加工業者が広範に広がっている。このような大坂周辺農村における農間余業の進展状況は,幕末期経済発展の最高水準を示すものである。
執筆者:葉山 禎作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報