中金村
なかがねむら
[現在地名]額田町中金
男川支流の乙女川が北流し、男川と合流する辺りの河岸段丘万足平に耕地が集中し、集落は男川左岸と乙女川右岸に立地。東は石原村、西は明見村、西南は滝尻村、南は栃原村と各々山で接し、北は男川で対岸の亀穴村と境する。中世、宮崎郷に属した。奥平氏家譜によると、永享五年(一四三三)没の作手城主奥平貞俊の弟貞直が「来三州領作手之内中金邑」とあり、奥平氏が代々中金城主として支配している。天正三年(一五七五)の長篠の戦当時の城主は奥平定次とある。
慶長検地当時は宮崎村の内で、天和元年(一六八一)鳥羽藩領土井周防守支配の際に宮崎村を元村として分村独立。享保一〇年(一七二五)に再び幕府領になり、安永元年(一七七二)に西大平藩領に編入し明治に至る。天和元年鳥羽藩領編入の直前の長沢(現宝飯郡音羽町)代官松平市右衛門支配のとき大代村と山論があり、貞享四年(一六八七)にも中金山鐘鋳場をめぐって萩村(現音羽町)と山論、このときには公儀裁許絵図(鈴木家文書)が出されている。
中金村
なかがねむら
[現在地名]豊田市中金町
矢作川の支流力石川が、村域南端を東西に流れ、飯田街道(国道一五三号)が並行して通る。「和名抄」所載の賀茂郡加禰郷の地に比定されている。千鳥の千鳥寺蔵永享元年(一四二九)の梵鐘銘写に「三州賀茂郡高橋庄東方中鹿野郷」とあり「中鹿野郷」と記される。「愛知県西加茂郡各村沿革調」に、「往古ハ中鹿野村ト称ス文明年中ニ中金村ト改称ス村中ニ一大石有リ金石ト称ス故ニ併セ称スルモノト云」とあり、村名の由来を記す。中世には、三宅氏の中金城が構えられた。各村沿革調の当村の項に「旧東広瀬城主三宅摂津守家臣三宅道閑ノ邸趾アリ方今其地ヲ転ジ字山ノ神ニ其碑ヲ存ス」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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